【金三角 邊区 荒城】 二十六 孤軍の悪運

二十六、孤軍の悪運
「孤軍が傷を舐めて癒し始めたのもつかの間、やっとひと息ついたその時、タイ政府は孤軍に二者択一を迫った。タイを出ていくか、それとも武装を解除するか」


メサロン(メーサロン)の惨憺たる二十年の建設は、言葉にできない苦労が現実に存在することを我々に教えてくれる。すなわち、二十年前、孤軍がメサロン(メーサロン)に軍営を築き始めたころの数々の苦労は、想像するだけでもその苦しみが伝わってくるようである。私と同年代の一人の軍人が往事を回想して私に言った。「我々が初めてここに来たころは、メサロン(メーサロン)には虎も出たんです」

二十年前、メサロン(メーサロン)はリス族が暮らす小さな集落で、数家族が住んでいるだけにすぎなかった。おそらく世界でももっとも善良で、もっとも従順な少数民族であろう彼らは、ほとんどがタイビルマ国境地帯に集中して分布していた。彼らは温和であり、また、人をよくもてなす。アメリカインディアンが両手を広げて白人を迎えたのと同様、彼らも孤軍をそうして迎え入れたのであった。段希文将軍はそのせいもあってメサロン(メーサロン)を拠点建設地に選んだのである。さらに重要なことは、見晴らしのきく高い場所を押さえて、山々の細い通路を扼することができる点にあった。リス族はアメリカインディアンよりも運がよかったといえるだろう。孤軍は彼らを騙すことも殺すこともなかったし、ともに混住することを願い出たのであるから。だが、まったく衝突がなかったかというとそうでもなかった。リス族の大酋長の墳墓が、孤軍が道路を建設するルート上にあったことからである。山地でルートを改めるということは、平地の何万倍も難しい。平地ではそこを軽く迂回するようにすれば済む話でも、山地ではそうもいかず、山を一つ越えて迂回しなければならないことになる。付近に住むリス族の住民たちが集まってきて、その墳墓の竹垣を取り囲んで歌垣をしている。孤軍は彼らと話し合ったが、墓を掘り返すなど、先祖を崇拝する民族にとってはとんでもないことであり、話し合いは当然決着しない。手が尽きた孤軍は詭計を用いることにした。まず、道路を作らないことを宣言して、その場にいたリス族たちを家に返し、その夜、墳墓の土を半分削ってから、竹垣を元通りにしておいた。翌日、リス族たちが墳墓を見にくると、みな半信半疑で去って行った。このことが、その私と同年代の軍人の心に二十年も引っ掛かっているのであった。中国人もまた、先祖を崇拝する民族だったからである。

チェンライからメーサイに至る一本の国道はアスファルトで舗装されている。しかし、途中のパーサンからメサロン(メーサロン)に至る道は未舗装の泥道である。私がメサロン(メーサロン)に赴いたときには、道中、タイ政府によってコンクリート橋が架けられていた。普通の乗用車でパーサンまで来ると、そこから先は、山道に適した最低地上高の高い自動車に乗り換えなければならない(もし台北を走っている自動車のように底が低いと、でこぼこ道の石にシャフトがぶつかって壊れてしまう)。五月から十月までタイ北部が雨季の間、タイヤにはチェーンを取り付けなければならない。油鍋の中にある卵を箸で掴むのが難しいように、泥濘にタイヤをとられてひたすら滑って空回りしてしまうからである。そして乾季になれば、道路はまるで香炉のようになり、自動車が一台通り過ぎると、空を蔽わんばかりの土埃が舞い上がる。

こんな道路状況であるが、それでもこれはここ五、六年のことであるにすぎない。孤軍がメサロン(メーサロン)にやってきて、十三、四年ぐらいの間、メサロン(メーサロン)は外界から完全に隔絶された日々を送っていた。根拠地の建設には資材が必要である。煉瓦一個、瓦一枚、釘の一本、金槌にいたるまで、すべて、チェンライから自動車でパンサンまで運んで、そこで騾馬に載せ替えて山塞であるメサロン(メーサロン)まで運んだ。パーサンからメサロン(メーサロン)までは現在では二時間の路程にすぎないが、そのころは、山を越え小川を渡り、ほぼ丸一日からひどいときは二日かかってやっとたどり着くことができた。メサロン(メーサロン)は二十年に渡るこうした滴り落ちるような苦労の積み重ねの結晶なのであった。人々は、これはみな段希文将軍の固い決意のおかげであると考えている。まさしく、士卒とともに苦労を分かち合う(こうした言葉は発するのは簡単で、我々も耳にたこができるほどたくさん聞いたことがあるのだが、本当にそのようにやり遂げた例はいくつあるのだろうか)を地で行くような話であるが、段希文将軍は一人の純粋な将校であるというよりも、孤軍と孤軍たちとともに暮らす村民たち全員の家長のような存在となっていった。これは武力で作り上げたものではなく、人々が彼を信じて付いてきたからこそであろう。

メサロン(メーサロン)は日々少しずつ安定してきていたとはいえ、同時に孤軍の困難も一日また一日と深まっていく。ビルマ領内の基地は全部陥落した。血を流して戦うこと十余年、そうしてたどり着こうとした目標は、ただたどり着けなかっただけでなく、反対に日々遠のいていくようであった。今はタイ領内にいるがここも所詮は他人の国土である。明日何が起こってもおかしくはないし、次の一歩はどの方向に向かって歩み出せばよいのだろうか。こうしたことは誰にも分からず、先行きは不透明なままであった。孤軍のうち、司令部をメサロン(メーサロン)に置く部隊には、まずなによりも補給が必要であった。強大な国際的圧力の下、台湾からの補給継続は絶望的となった。だが、馬幇が大量に孤軍に投じたために、孤軍の人数は反対に増えていた。第二次台湾撤退のあと、ビルマ政府軍がビルマの東北部、すなわちシャン州から追い出されてからというもの、ビルマ共産党が勢力を伸ばして、孤軍が押さえていた地域を接収していた。馬幇はそうして交易を中断せざるを得なくなり、人の往来もまれになってしまった。中国とタイの間を数百年に渡って往来してきた武装交易キャラバンである馬幇は、こうしてすっかり途絶えてしまったのであった。馬幇が大量にタイ北部にいる孤軍へと身を投じてきた裏には、こうした事情があった。また、中国、ビルマ、ラオスからも伝手を頼って中国難民も絶え間なくやってくる。さらに、孤軍の第二世代である子供たちも徐々に成長していたし、周辺の少数民族も帰依してきたのである。そうして孤軍は雪だるまのように、幾何級数的に人数が膨れ上がり、規模が拡張していったのであった。我々の目には、孤軍はすでに防衛の最前線と化しているようにみえたが、司令部によると、最前線はチェンコン、チェンカン一帯の拠点とのことであった。第三軍もサンティワナーだけに集中することはできないし、第五軍もまたメサロン(メーサロン)だけに集中して存在することは不可能であった。そのため、両方とも連絡を取り合いながら扇を広げたように分散していた。さらに、人数の増加だけが問題ではなかった。現地にはすでに、または新興の違法集団が活動していた。タイ政府が「異動分子」と呼ぶこうした武装勢力、タイ共産党、苗族共産主義勢力などは、山々に立て籠もり、彼らにとって邪魔な存在である孤軍を敵と見做しているのであった。こうした圧力に対して、孤軍はただ反撃するしか方法がない。孤軍がたとえ敗残兵力であっても、おそらく敵がさらにもっと弱かったこともあってか、孤軍は戦場ではたびたび勝利を収めていた。拠点と防衛線はこうして勝利するたびに外へ外へと伸びていき、ついにはラオス国境までたどり着いてしまったのであった。

孤軍が拡張していくと同時に、また、滅亡への種は蒔かれていたのであった。「異域」のころと同じく、勝利の果実は凱旋や行賞ではない。それはいつも、さらに大きな挫折であった。これは、孤軍に永遠に付き纏う悪運のようなものであった。孤軍が北タイに竹の小屋を建て、何キロも離れた水場から竹の筒を何本もつなぎ合わせて貯水池まで水を引いてくる。そうして大変な苦労をして拠点を建設して、やっと傷口を舐めるゆとりができてひと息ついたとき、タイ政府は何も聞かず何も尋ねず、むしろ睦まじい態度であったのに、これが突然急変する。最高統帥部が孤軍に対して厳格な訓令を出したのであった。孤軍は次の二つのうちからどちらかを選べ。それは、タイから出て行く、または、武装解除に応じるの二つであった。




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