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【金三角 邊区 荒城】 二十四 奇異なる九十三師団

二十四、奇異なる九十三師団
「抗日戦末期、中国遠征軍九十三師団はかつてタイ北部に入ったこともある。現在は、タイという土地に体を借りて魂を吹き込み、孤軍が九十三師団を名乗る」


九十三師団、孤軍、そして孤軍末裔。この三者の関係は、この世でもっとも奇妙なものの一つである。中国人ならみな知っている。これらはまったく違うものなのだ。だがタイ人の理解ではそうではない。タイ政府、国軍最高統帥部、民間。みな一致して九十三師団すなわち孤軍であり、孤軍すなわち九十三師団である。甚だしくは、自衛のための武力を保持している華人なら、いかなる国籍であろうとも、たとえば、タイ国籍であろうとも、やはりこれもまた九十三師団なのである。クリアンサック大将の談話も、タイ語紙の報道もみなこれを裏付けている。

九十三師団の成り立ちとはどんなものか。その答えは「異域」のなかに見つけることができる。遠く一九四○年代初期、国軍第二十六軍では九十三師団を編成していて、師団長は|呂國銓《ルォグオチュァン》将軍であった。ビルマに入って日本軍と戦った中国遠征軍のなかにも、すでに九十三師団はある。彼らの後勤補給と野戦部隊は、ときどきビルマ南方の山岳地帯にも入って行った。九十三師団はタイにいたこともあって、それがタイ北部の民間人の間で印象を残していたのであろう。抗日戦が終わると、中国のすべての遠征部隊は国内に戻る。だが、呂國銓将軍と彼が信頼するわずかな人数がそのままタイに残って商売を始めた。一九五一年になり、|李國輝《リーグゥオホィ》将軍率いる異域孤軍が、ビルマ軍との戦闘に勝利し、タチレクを陥落させたあと、李彌将軍がバンコクへ来て第二十六軍を再建した。そのころちょうど商売が軌道に乗り始めていた呂國銓将軍は、その軍団長に任じられ、第七○九連隊は一九三師団に改編されて李國輝将軍を師団長とした。その時ともに改編された第二七八連隊は九十三師団となり、香港にいた|彭程《ポンチェン》が師団長となった。彼はかつて第二十六軍で連隊長と司令部要員を勤めていたのである。

孤軍は一九五三年の第一次台湾撤退で、李國輝将軍の一九三師団は台湾へ撤収して、彭程将軍の九十三師団は残ることになった。しばらくしてまた新たに改組され、「雲南人民反共連合軍」が成立した。台北からは中央陸軍士官学校第四期卒業の|柳元麟《リゥユァンリン》将軍が担任総指揮官として派遣され、以下の五個軍が成立した。

第一軍 軍団長 |呂人豪《ルォレンハオ》
第二軍 軍団長 |甫景雲《プージンユン》
第三軍 軍団長 |李文煥《リーウェンホァン》
第四軍 軍団長 |張偉成《チャンウェイチェン》
第五軍 軍団長 |段希文《ドゥァンシーウェン》

一九六一年の第二次台湾撤退に続く涙が出るほどの往事については、私がこのルポで遡ることはあるまい。克保氏の異域の続編を待とう。ここでは、その後の孤軍の命運について触れるが、それは第一次よりも大きな挫折を伴う大きな変化であったといえる。孤軍の血と涙が染み付いたビルマ領内の基地、山々、山道東西約十二、三万平方キロメートルが完全に喪失した。しかし、いくつかの重要な都市だけがビルマ政府の手に落ちただけで、大部分の地区、つまり、連綿と続く山岳地帯はいわゆるクンサーが言う独立を求めるシャンの土地である。だが、前後して勃興してきたワ族などのビルマ共産党に押えられている。

それでもビルマ政府は自分たちが、タイ政府よりも聡明であったと考えているようだ。彼らは孤軍を追い払ってしまったからである。孤軍は彼らと戦ったこともあるが、それは侵略的意図はなく、犯罪行為を行うでもない、ただ身を守るだけの悲しい兵士の一群であった。ビルマに老いて骨を埋める気持ちもないのだから、ビルマの主権にとっても脅威ではなかった。だがビルマ政府が孤軍を国境の外に追いやったあと、孤軍に替わって湧き上がってきたビルマ共産党に対して、ビルマ政府は手が出せないでいる。事実上、ビルマ共産党こそ麻薬王なのではないか。クンサーが押えている地域からの阿片生産量は決して大きくない。彼が主に行っているのは運搬に関する部分だけである。だが、それが、彼がビルマ共産党と手を結ぶとの話が喧伝される唯一の根拠である。

第二次撤退の際、三軍と五軍は不撤退を決定した。この不撤退の理由については、さまざな話がある。一つは、両軍の兵士の大部分が当地(ビルマとタイ)で結婚し、子供も生まれている。家を捨てて家族たちを連れて、あえて未知の台湾へ行きたいとは思わないということである。もう一つは、まさに、王克志さんがかつて耳にしたように、情勢の変化に備えるために、上層部が明示したかそれとも暗示したかはわからないが、彼らが残留すべき意思を示したからであろう。常識的な判断として、この両方の理由は十分可能性がある。そうして、一九六一年五月、第二次台湾撤退が完了したとき、タイビルマ国境に残留した孤軍は三軍と五軍が主体となっているわけだ。さて、ここで説明しておかなければならないことは、孤軍における「軍団」であれ「師団」であれ、国内の現代化された陣容を基準にその規模を推し量ってはいけない。山また山、峰また峰のこうした場所では、百人の部隊でもすでにそれは大きな兵力となる。当時の残留者は、三軍が七百五十人程度、五軍もまた然りで、合わせて千五百人程度である。

三軍と五軍は別々にビルマを南下し、あっさりとタイ領内に入った。そのとき、タイ、ビルマ両国政府の力は、ともに国境地帯を統治するほどではなかった。孤軍と雲南省から来た馬幇にとっては、国境を行き来することは、自宅の客間と寝室を往来するようなものであって、国境の両側が違う国家であるという発想はあまり生まれない。

タイ政府は彼らの国内に入ってきたこうした招かれざる客について、当初はまるで無知であった。また、それを知ったとしてもそれほど珍しいことだとは思わなかったようだ。孤軍内部で行われる度重なる改編で彼らはさらにわけがわからなくなっていたが、それをはっきりさせようという努力もしなかった。ただ、タイ北部の民間人がそう呼ぶという習慣なので、簡単で明瞭なため、一律に「九十三師団」と呼んで今に至るわけである。




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