【金三角 邊区 荒城】 二十一 孤軍の危機

二十一、孤軍の危機
「中国人でさえこうした誤解をするならば、タイ人なら尚更混同しているはずだ。これこそがいまタイ北部にいる孤軍末裔たちが向き合っている危機とはいえまいか」


王克志さんは手紙でこう続ける。
「私は一月二十三日にタイに到着しましたが、ちょうどバーンヒンテークの戦闘が活発に行われたころです。二十六日にはチェンライに到着し、当地の華人学校に大量の教科書、医薬品、衣服など、あわせて二百五十キロほど持っていきました。タイ北部にいる間は村民の家に滞在していましたので、草の根でこうした状況が認識できました。私の胸中には一つの疑問がありました。それは「異域」の孤軍はなぜここに留まりつづけるのかという疑問です。そしてついにわかったのです。彼らは、台湾に行けたとしても、どのように生活すればいいのかわからないのです。ある階級の高い老軍人が、私に人には言えないような理由を話してくれたのです。二度の台湾撤退の時、政府は力を温存させるために居残りを命じていたのです。この勇猛果敢で、部下たちに愛されている老将は、彼の一生を、国家と理想に捧げて、その後の彼は袖を振っても塵一つ出ないような状態で、私は涙を禁じ得ません。私は心苦しい思いです。彼らはどこへ行けばいいのでしょうか。国家といえども、この政治的に敏感な地域に住む二十万人すべてに援助の手を差し伸べるのは不可能です。ただ、少しでも多くの思いと、少しでも多くの力が彼らの生活を改善し得るのです。そしてそれこそが私たちができることでもあるのでしょう。ある人が言いました。「異域」の孤軍末裔たちと彼らが住む難民村を見たら、この地に対して永遠に忘れがたい情を抱くことでしょうと。私とて、その例外ではあり得ません。台湾に戻ってから、私は積極的にこのことを伝えるべきだと考え、多くの友人達を説得して、長期に渡る教育、医薬品、農業などの支援を準備しています。さらに、雑誌「宇宙光線」と連絡して、母の日に、ボランティア公演を行って、「異域」孤軍末裔たちの難民村のために、募金をしました」

「私たちが懸命にこうした事業を展開していたとき、先生の文章は間違いなく大きな打撃になりました。なぜなら、私たちが『麻薬の三角地帯』のために募金活動を行っていることになってしまったからです。先生の文章を細かく読んでいくと、先生はチェンライとバーンヒンテークを訪れただけではありませんか。バーンヒンテークがタイ北部全体を表していることはありえないことで、それはタイ北部にいらした方なら誰もが知っています。ですが、今年初めの記事は、見出しだけを読んだ読者が大変多いのです。もし細かく読んだとしても、ほんのわずかな人たちだけが、タイ北部の錯綜するこうした複雑に関係を理解できるのです」

「柏楊先生は、タイ北部にある、孤軍末裔たちが住む三十三の難民村の生活の苦しさを、きっとご存知だと思います。ですがもし、麻薬という観点からのみ報道を続けられれば、それは公平さを失うばかりか事実にも反するものです。単に、いまのところ報道したのが、たまたまバーンヒンテークの張家だけなのであったとしても、大部分の読者はそれを察することはありません。その結果は推して知るべしというべきでしょう」

王克志さんはいう。
「まだすべての内容を発表していないと思いますし、今後どのような内容が書かれるのか見当もつきませんが、ここ数カ月、タイ北部の中国人のために、あちこちを奔走している私たちはすでにもう崩れそうです。このお手紙が余計な心配に終わればいいのですが、明日明後日にでも、麻薬以外の記事、それもできれば孤軍末裔と難民村に関する記事を目にすることができれば、私はそれこそが、先生が今回取材に赴かれた主要な目的だと信じることができるでしょう」

そして、こう強調した。
「事実上、「異域」孤軍はクンサーの被害者なのです。このタイ北部では誰一人として「張奇夫(クンサー)」の三文字を、大きな声で口にする人はいません。私がはっきり覚えているのは、二月二十八日のことです。私はその日、ムアンラオフーに宿泊していました。深夜に張家の小部隊がやってきて兵を捕まえる、との噂が風のように聞こえてくると、男性はみな驚いて逃散し、女性や子供たちはただ震えているだけでした。これは忘れられません。さらに、私たちが|永泰《ヨンタイ》にいたときのことです。そこにはまだ武装したままの孤軍、雲南人とワ族の混成部隊が駐屯していました。私たちの出発する前、こうした剽悍な軍人たちが、目に涙を含んで私たちを見送ってくれたときの情景には、時代の悲劇と中国人の苦難が刻まれていました。私がどうしてこのようなタイ北部での一つ一つの出来事を忘れられましょうか。多くの若者たちが、「異域」の影響を受けているのです。ですから、彼らに私の胸のうちにあることを伝えれば、彼らはすぐに理解を示し、私たちに協力してくれるのです。ですが、私たちは旗を振って鳴り物入りで鼓吹したりはしません。どんな副作用が付いてくるかわからないからです。したがいまして、私たちはただ黙々と犠牲の精神で貢献していくつもりです。孤軍の難民村に対する、長期に渡る医薬品、農業技術、あるいは教育上の一滴一滴の援助です」

王克志さんは最後にこう結んだ。
「ここしばらく、私は黄金の三角地帯ではみな麻薬に関係しているのだろうと考えている人によく出会います。まるで主観的にすべてを否定するような人たちは、私たちが彼らに対して、事実、つまり、孤軍末裔たちの口に出せない悔しさを伝えても、やはり全否定なのです。先生が、文章によってここまで知名度を上げて、確固たる地位を築いた一人の作家であるのなら、何も話す必要はありません。もし、先生が孤軍に対して真実の情を抱いておいででしたら、すぐさま彼らを救っていただきたいのです」

彼女の手紙はここで終わっている。王克志さんの愛に満ち溢れた心に非常に感謝している。彼女は一介の二十過ぎの女の子であるにもかかわらず、危険なタイ北部地区へと自ら深く入り込んでいき、具体的な行動をもって、この忘れ去られてしまったような孤軍に奉仕していることには深く感動させられた。しかし、私に対して指摘なされている部分について、私は恥ずかしながら自分に何ができるかまだわからないのである。今まで書いてきた部分では、たしかに「シャン州革命軍」とその基地であるバーンヒンテーク、さらに「黄金の三角地帯」についてのみ述べてきていたといえる。最初の「出発」の部で触れたように、私が現地に向かう理由を説明している。第一は「タイビルマ国境地帯に、「異域」で描かれている、残留した孤軍末裔たちを訪れること」。第二は「難民村と黄金の三角地帯をこの眼で確かめにいくこと」であった。その時私は孤軍の所在地がすなわち難民村であるということを迂闊にも知らなかった。そのため、私が訪問できた対象は孤軍そのものと黄金の三角地帯の二つであった。だが、黄金の三角地帯についてはすでに書き終えている。そもそも、このテーマは数千文字で伝えきれるものではないのである。もっとも、ある一つのことが、考えれば考えるほど私を困惑させるのであった。どうしてある人々は現実をありのままに理解せず、黄金の三角地帯について書いている記事を、孤軍について書いていると考えるのだろうか。こうした想像力豊かな人々は、私の自信を失わせてゆくのであった。それに、王克志さんの語気から察するに、タイ北部から戻ってきた人は、なぜか人の憂う「異域」孤軍難民村だけを報道して、それ以外の、黄金の三角地帯については報道すべきでないような口ぶりである。孤軍難民村について報道すれば正統で、黄金の三角地帯について報道すれば邪道なのだろうか。聞くところによると、自らそれなりの地位にあると名乗る方から、かつて、「中国時報」に怒りに満ちた抗議の電話があって、こうした「士気が下がる」ような文章を掲載すること罷りならんと言っていたらしい。私はこの話にいたく失望させられたし、何度考えてもその理由がわからないのであったが、こうして王克志さんのお手紙を拝見して、誤解が生じる原因がやっとわかったのである。

本稿はいままですべて、しっかりとした証拠に基づいて書いていることは極めて明らかなことなのだ。問題は、中国人ですらこのように(つい同一視してしまう)という誤解を生じるのであるから、野心的なタイの政治家による煽るような言葉の数々に乗せられたら、タイ人たちはこの二つの存在をきっちり分けることも難しく、甚だしくは、あえて分けないようにすることであろう。これこそがまさしく、タイ北部孤軍末裔たちが現在向き合っている危機なのではあるまいか。





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