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【金三角 邊区 荒城】 十五 少数民族

十五、少数民族
「麻薬王たちの武装集団であれ、「異域」孤軍末裔たちの自衛隊であれ、少数民族がその戦闘の主力である」


さらに、黄金の三角地帯と切っても切れない存在は、山岳少数民族の部落である。もしこれら山岳民族が存在しなければ、黄金の三角地帯も存在せず、さらにいえば、今回のようにタイビルマ国境地帯で軍事行動が発生することもなかった。「異域」の孤軍たちですら、この地に生存することはできず、さらにその末裔たちも、なおさらこの地に根を下ろすことはできなかったであろう。

タイ北部の山岳少数民族はラワ族、アカ族、ラフ族、揺族、リ族、苗族、カレン族および華人などである。華人はもっとも人口が多いグループの一つである。私の手には、いかなる公式の統計数字もないのだが、私がバンコクでタイ公安局第五署署長ジエリーヤシン大佐に取材した時、我々はともにその数を見積もったのであるが、華人系と「異域」孤軍の末裔たちなども含めて、だいたい二十万から三十万人の間であろうと思われる。また、ある人は三十万人以上とも言うが、それにしても、ほぼみなそのぐらいの数であろうという印象であった。すべての少数民族のなかで、華人系だけがタイに厄介事を持ち込むのだが、反対に、華人系だけがタイの主権保護および統一のために血を流し、タイ国と憂いを分かち合う。

その他の少数民族の部落は、タイ人に対していかなる苦悩ももたらさない。彼らの人口は少なく、たとえば、ラワ族などは合計一万一千人に過ぎず、ぼろぼろにしか見えない四十二の村落があるだけだ(実際その村落も話にならないぐらいの数部屋しかない高床式の草屋である)。そして、数千年前から続いているのではないかと思えるような原始的な生活水準のままである。タイ北部のあらゆる少数民族には共通の特徴があって、男女を問わず、頭だけを顧み、足を顧みない。つまり、頭と顔が彼らの美容概念のすべてであるということだ。

頭には、帽子を被り、花を差し、彼ら自身が美しいことこの上ないという装飾品を載せるが、膝から下はみな裸足のままで、泥に塗れるに任せている。さらにはほとんど入浴しない。私が背中にかごを背負ったワ族の族の女性に、台湾の中国人は毎日入浴しますよと話したときに、彼女の顔には私が嘘をついていないか洞察するような表情が浮かび上がった。だが私は微笑みで返したあと、自分の居場所がなくなるような感じがしたものだ。これは彼女の方がおかしいとは言えないし、山に住む他のいかなる人も同様である。そしておそらく多くの華人系もそうなっていくのではあるまいか。長い乾季には、彼らは水を調達できない。我々が蜂蜜を手に入れるより難しいようなものである。

山岳少数民族にはもう一つ共通点がある。それは貧困である。タイ北部とビルマ東部すなわちシャン州の土壌は、耕作可能なわずかな土地がある以外、ほとんどの地域においていかなる農作物にも適さない。この土壌の性質は極めて不思議だ。事実上、「黄金の三角地帯には土壌がない」と言っていいほどで、あるのは、掘っても掘っても堀尽くせない細かい石と土の混合物というべきものである。

タイ政府が阿片吸引を厳禁して以来、タイ北部一帯では、かつて、茶樹の品種改良を行ったことがあるが、その効果は満足のいくものではなかった。それゆえ、山岳民族たちは今にいたるもフランス人とアメリカ人に感謝し、かつ懐かしむのである。フランス人とアメリカ人は彼らに罌粟の栽培を教えることで、彼らの生活を改善していたことになるからだ。

そう多くはないが、一部の歴史家たちは、タイ人のルーツは南詔王国の末裔であると主張している。現在の中国雲南省に建国された南詔王国(西暦七二七年~一二五三年)は、蒙古に征服されたあと、その国民が大量に南下してきて、彼らは俗に「小タイ(※タイノイ)」と呼ばれる。そして、未だに何かせずに留まっているグループを「大タイ(※タイヤイ)」と呼び、アイロウ、シャンあるいは、一連の少数民族の通称となっている。こうした歴史家たちの判断と民間伝説には、民族はみな南に向かって移動するという特徴がみられる。現在タイ国境地帯の少数民族の中にも明確に証明される例として、揺族が中国から来たという事実がある。ずっと現在まで、一九八二年まで、私が彼らを訪ねたときは、彼らは未だに漢字を用いて、その上、漢字の本を読んでいた。私は駆け寄って抱きつきたいような親しみの衝動に駆られたものである。二枚の写真がある。一枚は十三世紀宋王朝の政府が一二六○年に彼らに発行した証明書である。これはもう珍品といっていいだろう。タイの学者チャートルイハン氏によれば、これは二百年前の公文書であるという。しかし、中国では「景定」という年号は、十三世紀にしか存在しない。そして、「正忠」という意味もまだよくわかっていないが、おそらく雲南地方の政府が発行したものであろうと推測される。まあ、何とでも言えてしまうかもしれないが、考察癖のある友人の考察が終わるのを待とう。もう一枚は、ある一人の揺族が彼の親友に手紙を書いているときに撮影したものである。

苗族の分布は揺族よりもさらに広がっている。彼らの大部分もまた中国から来た。その差は彼らが漢字と中国語を用いないことにある(つまり、ヤオ族は漢字と中国語を使用する唯一の少数民族であるということになる)。苗族の一部分はラオスから来たが、それにしても、まずは中国からラオスに入ってからのことである。大きな違いは、彼らラオス経由でタイに入ってきた苗族は、大きな困難を経験したことであろう。彼らはまずフランス人、続いてアメリカ人と密接に協力して、大きな戦果を挙げた。アメリカのマスコミでは、計画的な宣伝が行われ、「苗族部隊」はかつて世界でその栄誉を讃えられた。しかし、いつ頃からか、アメリカは突然手を引いてしまう。中央情報局はまだ若干の人情が残っていたとみえ、上に立って戦っていた首領級の人物についてはアメリカに受け入れた。彼らは阿片でたっぷり稼いだ米ドルを腹に巻いていた。贅沢な日々を送り、そのドルは百年かかっても遣いきれないほどだった。ある苗族の青年が言っていた。しかし、彼らに捨てられた最初の時期から生死をともにしてきた仲間も含む戦友たち、そして苗族全体が、ベトナムとラオスの共産勢力から虐殺のごとき大規模な報復を受けた。命からがらタイに逃げ込み、数年来、その時の恐怖が蘇るという。

我々はこのまますべての民族を紹介していくことはできないので、ここらへんでまとめよう。山岳少数民族は、ずっと原初の文化を保持し、そして、ずっと貧しいままである。千年万年とほとんど永遠ともいえる栄養不良は、もしかしたら彼らの智力に傷跡を残しているかもしれない。多くの華人たちが私に言った。「ワ族やアカ族は一から十までまともに数えられないんです」これでは彼らが文明レベルの高い仕事に就くことはほとんど不可能であろう。タイにおいては彼らは大っぴらに罌粟を植えることはできないので、その生活は悲惨なものである。私たちはかつてアカ族の小さな村を訪れたことがある。薄暗くてよく見えない高床式住居に入り、眼が慣れてきたころ、やっと両親と子供たちが小さく車座になってそこに跪いているのが見えてきた。吐き気を催しそうな不潔な黒い手で、蝿がびっしりとたかったご飯を掴んでは口に放り込んでいた。私の妻は悪寒が走ったという。しかし、この様に非常に貧しく苦しいからこそ、彼らは理想的な兵士の供給源ともなるのである。麻薬王の武装集団であれ、「異域」孤軍の末裔たちが組織する「自警団」であれ、華人系のほか、こうした少数民族はすでに戦闘の主力となっているのである。




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