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【金三角 邊区 荒城】 十三 阿片の二大供給国

十三、阿片の二大供給国
「フランスはインドシナの植民地経営を阿片貿易に頼っていた。アメリカは介入後、やはり阿片取引を行った」

清国の阿片撲滅もやはり失敗に終わっている。撲滅するどころか、より多くの阿片が氾濫したといっていい。こうして堕落一度すると、とことん堕落していくのである。英国紳士が持ってくる阿片を吸うぐらいならどうして自分たちで罌粟を植えないのか。そうして、元からあった罌粟の栽培地は迅速に拡大していく。罌粟を植えていなかった耕地にも、品種改良された罌粟を植える例が増えていった。その結果、普通の作物を作っていた時の四倍から六倍の収入があったといわれ、こうした数字が農村を狂喜させたのはいうまでもない。

英国政府が銃と砲でせっせと阿片を中国に持ち込むことに忙しく、中国も自ら罌粟の栽培を始めて自国市場に供給していたとき、フランスはインドシナ半島を併呑するのに忙しかった。一八六二年、サイゴンを中心とするベトナム南部を占領。一八六三年、カンボジアを占領。二十年後の一八八三年、ベトナム中部を占領。一八八四年にはベトナム北部を占領した。さらにその約十年後の一八九三年にはラオスを占領する。こうした地域を侵略し、さらに植民地統治の重い経費を捻り出すため、フランス政府は阿片に目をつけたのであった。当時のインドシナ半島にはすでに膨大な数の阿片常用者が存在していた。彼らは基本的にすべて中国人であり、彼らは中国からやってきた商人や労働者である。

フランスは一握りの富商を選び(彼らもまたほとんどが中国人であった)、彼らに阿片専売ライセンスを発行した。そして、定期的に(半年または毎年)フランス植民地政府に嬉しい税収をもたらし、さらにその税収は毎年拡大していった。彼らは法律によって保護され、公明正大に阿片を輸入ことができた。のちに、フランス植民地政府は、彼ら富商に工場建設を奨励し、生阿片を精錬して直接吸引できる加工済み阿片を製造させて、日々拡大する市場に供給させたのである。

二十世紀一○年代の一九一五年、第一次阿片戦争から七十七年の歳月が過ぎていたが、国際世論と道義上の圧力を受けて、英国は店を畳んで中国への阿片持ち込みを停止した。一九二八年に中華民国が成立し、阿片取締りに乗り出すが、中国は国土が広大であり、交通も不便、加えて中央政府の統治能力も微弱であり、阿片撲滅は困難を極め、二十年の努力のあと、やっとわずかな成果をあげただけである。

つまり、フランスは阿片取引を合法化していた二十世紀唯一の国家であったことになる。国際世論がなんだ、人権や道義がなんだ。フランス人は鼻で笑っていたのであろう。フランスにすれば、英国が阿片取引を停止したのは馬鹿のやることで、フランス人はそんな馬鹿ではないということだろうか。中国が自ら国を挙げて阿片撲滅に努力する、それは中国自身の問題である。フランス政府はこうした中でも無類の勇気を振るって、最後の最後まで徹底的に阿片を売ることに決めたのである。どうせ、阿片の吸引者はインドシナ半島の植民地にいる中国人と土着民に過ぎない。彼らが困窮しようと、それこそ、死のうとも、フランス人にとってそんなことは知ったことではないし、関係ないことである。ただカネさえ儲かればそれでよい。まさしく麻薬王的な醜悪な心理というべきであろう。こうして、インドシナ半島におけるフランスの植民地利益の半分以上が、実に阿片によるものであった。英国と中国の覚醒によって、阿片の調達が日増しに困難になってくると、フランス人はベトナム西北部とラオスにおいて罌粟の栽培を始めることになる。阿片のことすら知らない土地にまで専門家を派遣し、苗族(ミャオ族)、揺族(ヤオ族)などを中心とする山岳民族と接触させて、罌粟の栽培、収穫、および販売に関する知識を伝授していった。ちょうどこれらの土地の土壌と気候は罌粟の栽培に適しており、作付面積はじわじわ拡大していった。部落の酋長たちは、一人また一人と大きな資産を蓄えるようになり、もとはといえば貧乏この上ないジャングルの中で、王侯同然の贅沢な生活を送っていた。こうした酋長たちがフランスの恩義に涙を流さんばかりに感激し、彼らに心の底から忠実であったのはいうまでもない。

第二次世界大戦は全世界的に巨大な変化をもたらした。大戦が終結するとき、それはすでに二十世紀四○年代中期。一度日本人に攻められてインドシナ半島から叩き出され、尊厳をも失ったフランス人は、またベトナムに戻ってきた。頭によぎる「正常な状態への復帰」の夢とはすなわち、インドシナ半島をもう一度、大手を振って阿片販売ができる植民地政府の天下の再来である。だが、意に反して、彼らは現地の民衆から強烈な反抗を喰らうことになる。当初フランス人たちはこうした反抗が、大きな問題だとみなしていたわけではなかったが、こうした圧力が強まるにつれて、彼らは「山」を思い出すのであった。苗族、傜族などの山岳民族に救援を求めた。阿片取引の甘い汁に誘われた酋長たちは、四万人という膨大な兵力を率いてフランスを助け、ベトナム反抗軍を攻撃した。こうして反抗軍はその戦争の初期に大きな挫折を味わったのであった。論功行賞において、フランス人は彼らが産出する阿片をより多く買い付けて、この支援に報いたのである。

そのころは戦火が広がり、ベトナム北部とラオス東部には阿片の在庫が山と積まれていて、運び出すことができなかった。フランス人は、阿片の買い付けを拡大したことで、あっさりとこうした山岳民族たちの恩人となったのであった。フランス人は買い付けた阿片をサイゴンで売りに出した。このような合法的で公開された阿片の販売行為は文明世界にあっては奇観といっていいだろう。このことはまさしく、現在麻薬使用が拡散しているという罪悪について、究極のところ一体誰が責任を追うべきなのかということを、関連付けて説明している。

フランス人が大きな間違いをも顧みず、阿片を植民地支配の武器として使用したが、反植民地の潮流を止めることはできず、結局すべては灰燼に帰した。ディエンビェンフーの戦いが終わり、立派に着飾ったフランス軍兵士達が塹壕から出てきて、ぼろぼろの衣服を着た、裸足で、旧式の歩兵銃を手にしたベトナム人たちに投降したとき、昔のことを回想したはずだ。たった九十年前のことである。彼らの武威は轟き、征服者の姿でこの三ヵ国に君臨していた情景は、一世紀も経ずして崩れ去った。まさに栄枯盛衰である。

だが、フランスが追い立てられたあとも、阿片はこの地に残された。一九五○年代後期、アメリカ人がやってきて、フランスが出て行ったあとの空白を埋めた。アメリカは新しく建国されたベトナム共和国(南ベトナム)政府の顧問であり庇護者でもあった。彼らは西洋人式フランス型路線を継承し、山岳民族との密接な関係を維持し続けた。アメリカ中央情報局は彼らを徴募、訓練して北ベトナムに対抗すること数年、輝かしい戦果を挙げた現地雇用部隊に武器を提供した。しかし、アメリカは一貫して、ある事実を否定せざるを得なかった。それは、彼らの阿片を購買する以外に、いったいいかなる方法で彼ら山岳民族の忠誠心を引き出したのかという真相である。




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