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【金三角 邊区 荒城】 五 バーンヒンテーク

五、バーンヒンテーク
「この詩的な名前の小さな村で、クンサーは自分を除くいかなる人間にも、ここでの好き勝手を許さなかった」

張蘇泉はビルマ政府にクンサーと二人のソ連人人質の交換を要求した。ただ彼が思い至らなかったのは、ソ連という国家が人権などにはまるで無頓着な国であることで、とくにこの二人は重要な政府人員ではなく、国家としてわずかに不足している医師に過ぎないと考えていることであった。また、スダー氏に至ってはロシア人ではなくエストニア人であり、ソ連は彼に関しては冷淡であった。張蘇泉はソ連をアメリカのように使い、ソ連からビルマ政府に圧力を掛けてもらおうと考えていたわけで、この意味では失敗したといっていい。

だがビルマ政府は決して無反応ではなく、むしろ強烈に反応し、大規模な掃討作戦を展開したのであった。表面上は人質を解放することを目的としているようだが、こうしたやり方では、結局人質を死なせることになる可能性が高いはずだ。しかし、仮に人質がビルマ軍の砲火で死亡したとしても、それはそれでシャン州革命軍が殺害してしまったことにすればよい。ビルマ政府は中国の清朝が太平天国にしたのと同じように、外国の力を使って、この時間がたつほどややこしくなってくるシャン州革命軍の問題を処理したいと考えていたようである。状況はこのような方向に複雑化していったが、この二人のソ連人人質は、シャン州革命軍にとっても、かえって面倒な存在になっていった。捨てるに捨てられず、何の役にも立たない。こののちの一年間、常にこの二人の人質を連れて山を越え、追撃を躱さなければならなくなった。たとえば、彼ら二人が疲れ切って動けなくなると、担架で運ばざるを得ないといった具合だ。つまり、人質の生命を守ることが、シャン州革命軍にとって最も辛い任務になっていったのである。

しかしこの事件は国際社会の注意を惹いた。人質に対しては冷淡だったソ連も、こうしたビルマ政府の冷酷な行為に対しては厳しく追求した。そして、シャン州革命軍は、誰もが知っているあるチャンネル、つまり、タイ政府に調停を依頼したのである。これは極めて効果的な話の付け方であった。タイのクリアンサック大将は自らヘリコプターに乗りこみ、バーンヒンテークへ向かった。白く太った二人の人質を連れてバンコクに戻ると、彼らをソ連大使館へ送り返し、ビルマに対して必要な行動をとるよう要求したのだった。こうしてさらに半年の時間が過ぎ、ビルマ政府は自らの顔を潰すことなくクンサーを釈放することができた。ただし、彼がラングーンに居住し、毎月ラングーンの情報部に顔を出して、彼の行動について報告するという条件を付けたのであった。

クンサーは野心の強い男である。ラングーンに燻っているような男ではない。出獄一年半後の一九七六年二月、民間用のジープに乗ってラングーンを離れさっさと北へ去って行った。数日後、彼を乗せたジープはラーショーの東南の、とある無人の国道上で停まった。クンサーは車から飛び降りると、鬱蒼と生い茂る山々のジャングルに向かって立っていた。そう、このジャングルこそ、彼と彼の組織が大きく成長する基地となっていくのであった。

これがタイビルマ国境に起こった一つの事件の顛末であった。クンサーは同じく捕まった羅星漢よりも幸運だったといえるだろう。だが、彼の逃亡はビルマ政府を激怒させたのはいうまでもない。ビルマ国軍の大軍が再度追撃してきた。クンサーは全力でこれと戦ったが、昔の勢力を取り戻すことはできなかった。それに加えて、ビルマ共産党の武装勢力がビルマ北部からじわじわと南に向かって迫ってきたのであった。クンサーは少しずつ撤退していくしかなく、そして、やがてはタイビルマ国境まで撤退し、麻薬王朝の創始者であった羅星漢が残した空白の勢力圏に収まった。彼は、北タイ山間部の盆地にある小さな村、バーンヒンテークに拠点を築いた。だが、彼の軍隊はバーンヒンテークにいるわけではないし、司令部にしてもそうだった。彼らはこのバーンヒンテークからさらに北、七、八キロの、立ち入る者などいない山の中にいて、バーンヒンテークはその中継地点にすぎなかったのである。

このようなバーンヒンテークではあるが、その後もずっと桃源郷のような安寧を貪ってきた。少なくとも、今回の戦闘が発生するまではそうであった。タイ国境警備警察は自らの力の限界をよく理解していたので、ごくたまに巡視するだけであった。タイ国軍はタイの東部にあって、ベトナムとカンボジアからの侵略に備えており、こちらに構う暇などなかったのである。こうして、クンサーは、自分を除くいかなる人間にもここでの好き勝手を許さなかった。だが街の通りも家屋も、むしろ、周辺の他の村々に比べてよほど整然としている。私たちがバーンヒンテークに到着したその日、銃撃戦は一段落していたが、クンサーの重要な副官はある民家で重苦しい雰囲気のなか私に接見した。だが、街頭の市場はすでに以前の状態に戻っている。タイ兵と地元の人々が店の前を徘徊していて、のどかで平和な世界が広がっていた。

「二度とこの様な事件が起きるとは思えないのですが」当地にお住まいの女流作家、曽焔さん(しばらくあとであらためてご紹介する)が悲嘆に暮れたような声で言っていた。「私はずっとこのバーンヒンテークが世の諍いとは無縁な仙境だと思ってきました」

だが、私たちを驚かせたのはむしろ、クンサーがバーンヒンテークに学校を開いたことである。その名を「大同中学」という。私たちはこの、台湾の水準においてもかなりの規模に相当する学校を参観して、その学校の|孫武《ソンウー》校長と、年若い男女数名の教師たちと懇談した。ここはタイ国内では唯一の完全に中国語を使用して授業を行う中国人の学校であった。タイにおける無情な中国人学校迫害政策のなかにあって、このことは私を感激させた。しかし、戦闘が起こったことで、シャン州革命軍指揮部はこの経費を支払えなくなってしまったので、現在、校長は前倒しで休みに入っているという。タイ政府に対してはタイ語の教師を派遣してくれるよう要望しているし、タイの公立学校に指定してほしいとも考えている。タイ政府は教師の派遣には前向きだが、ただそれら教師の給与を負担するという意味であって、もしすべての経費を負担するのであれば、その他の中国人学校と同様、タイ語による授業を行うことが必須であるとしている。

「校長の思いはすでに乱れている」クンサーの副官は言った。「だがいかなる情況下にあっても、我々は屈服することはないし、中国文化を途切れさせることもない。ここにいる中国人の子供たちは、中国語を学ばなければならないし、我々がこの原点を忘れることは永遠にない」

だがこれにはちょっと不思議な感じがする。シャン州革命軍は、シャン州に学校を作らず、そのかわりに、タイに中国人学校を作っているのである。それはそのまま、クンサーとは一体何人なのかという疑問に繋がっていく。ちょっと頭を使う人なら、クンサーは間違いなく徹頭徹尾ビルマ人である。さらにいえば、ビルマシャン州人である。もし、移民してから二百余年という歳月を計算に入れないのであれば、たとえば、アメリカのレーガン大統領はイギリス人とされなければならないだろう。だがクンサーが華人であることに疑いの余地はない。母親の|嬾向宗《レイシャンツォン》は、シャン州出身のシャン族であるから、彼には中国人の血が半分流れている。彼の中国名は張奇夫であり、これは彼の父親が名付けた。しかし彼はいかなる場においても自分が中国人であることを認めていない。その理由は明らかだ。中国人ではシャン州の領袖にはなれないからである。これはフランス人がドイツの首相になれないのと同じ道理である。タイもまた、彼を中国人とは認めていない。ただ、クンサーとのみ呼び、張奇夫と呼ぶことはないのである。理由は簡単だ。もし彼が中国人であるということになれば、そのルーツをたどることになり、結果的にさまざまな面倒が倍増するのは明らかだ。欧米のマスメディアはは彼を「チャイニーズ」であるとしている。だが中国人というのは解ではない。彼は中国の国籍もないし、さらに言えばパスポートだってない。だが、華人という解をとるならば、事実上、彼は華人あるいは、華人末裔のビルマ人ではあるといえることになる。

我々がタイにいるときのことであるが、タイの地元新聞は「クンサーすでにタイ国籍を取得」のニュースを一斉に報道した。仕組まれたような報道は、当時のタイ内務大臣クリアンサック氏とクンサーの結びつきをすっぱ抜いた、クリアンサック氏はただ、そうしたことはないと言明せざるを得なかった。




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