スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【金三角 邊区 荒城】 三十二 老兵の死(段希文将軍の死)

三十二、老兵の死(段希文将軍の死)
「段希文将軍は毀誉褒貶いろいろあれど、その仕事に任ずること二十年におよぶ。老兵終に死す。孤軍の第三軍と第五軍はまとまりを失って遊離している。これでは、まもなく発生するカオヤイ山の戦闘にいかにして向き合うのか」


羅星漢に関する丁流《ディンリゥ》さんのご説明は非常に細かくて詳しいし、しかも、私の報道と若干の相違があるようだ。ただ、重要なことは、羅星漢の生い立ちと、彼がまだ拘束されているかどうかであろう。丁流さんから、「そうした資料をあなたに提供した人たちが、ただ街の噂を聞いて、ひと通り彼の生い立ちについて、いい加減なことを言っているだけに過ぎないのではないでしょうか」といわれれば確かにそのとおりだ。私にはそれしか方法がなかったのであり、ビルマのコーカン地区へ入ることもできなかったし、当然、本人に会見してことの真実を確かめることなど無理だ。仮に、私がコーカン地区に潜入することができて、本人に話を聞けたとしても、それを全面的に信用するということもありえないのである。やはり、自分でよく理解して、しっかりと判断すべきであろう。羅星漢について触れた部分は多くはない。それは、彼が主役ではないということもあったし、読者のみなさんに黄金の三角地帯の成り立ちについてお伝えする上で必要な一つの事柄であり、歴史の流れの中で彼に軽く触れただけだったからだ。しかし私は彼について少なくない資料を集めたつもりだ。また、私は彼に関係のある人と多くの接触を持った。その中にある女性がいるのだが、おそらく丁流さんもご存知の方であろう。彼女は今でもバンコクにお住まいの羅星漢の兄嫁である。もう一人は、孤軍の退役した高級将校である。

羅星漢の名前にある「星」の字はどういういきさつでそうなったのか、まず、これがわからなかった。もっとも、孤軍が保管している公文書の中では、彼の姓名は「羅新漢」になっている。もし、孤軍が彼の名付け親ならば、これは絶対にありえないことである(※訳注、その後高級木材や不動産投資などビジネス界に転身し、名刺の名前は「羅興漢」になっている。星、興、新の三文字の音はともに「シン」で、北京語では「新」だけは語尾に「g」がつかないが、雲南方言ではこの区別がない。ちなみに、ラングーンで指折りの高級ホテルであるトレーダーズホテルは、彼の息子とシンガポール企業の合弁による経営である)。我々は彼の家系を研究していないが、それはあまり重要ではないだろう。彼が拘束されているか否かについてだが、タイにいるとき、ある人がこのように言っていた。自称「関係が親密な人」のなかにも、相反する見解があるとしながらも、彼がまだ監獄にいることを肯定した。少なくとも、一九七○年七月の時点ではまだ出てきていない。丁流さんは、彼の釈放が事実だという立場のようだが、私が思うに釈放も継続的な拘束も、双方とも十分に考えられる論拠がある。仮にもし彼が釈放されたとしても、おそらく丁流さんがいうような、「ビルマ政府は彼を殺せないし拘束し続けることもできない。恐れているのは、コーカン人が決起して、その地縁と血縁から、共産党統治の中国に回帰するような騒ぎを起こすこと」というのも考えにくい。丁流さんが言うコーカン地区の面積は五千六百平方キロメートル(これはコーカン地区全体であって、コーカンの県庁所在地は、小さな町に過ぎない)だが、仮にその十倍の面積があったとしても、回帰するのは容易ではないだろう。国際関係は微妙で複雑だ、それほど簡単だと考えることはできない。

もっとも、ある部分についての理解は同じである。羅星漢はたしかに麻薬に手を染めているが、北タイ一帯の人々の間では、中国系も少数民族も、彼を敬って彼に付いていった。話によると、彼は麻薬で手に入れた収入のほとんどを中華学校の運営と貧民救済に充てたとも聞く。私がその話を聞いて思い浮かべたのは、梁山泊の好漢、|及時雨宋江《ナイシーユーソンジァン》の姿であった(※訳注、水滸伝に出てくる宋江のあだ名は及時雨。恵みの雨という意味)。

さて、我々は本題に戻ろう。

孤軍が「泰北山区民衆自衛隊」に改組されてからも、孤軍は相変わらず孤軍であった。人々はまだ彼らのことを「九十三師団」と呼んでいる。孤軍内部の三軍と五軍の区別はすでに存在しないことになっているが、内部的にはこの番号を継続的に使用していて、それぞれの指揮系統を維持したままであった。過去には両軍の間に若干の摩擦もあったようだが、わずかずつだが、環境の変化と利害の一致に伴って段希文将軍の統御下で融和し始めていた。○四指揮部はチェンライにも分所を設けた。私もそこを見に行ったが、雑草だらけの広い敷地の真ん中に、平凡な高床式の家屋が建っているだけであった。しかもなんと靴を脱いで上がらなければならないのであった。我々がよく想像するような軍事施設に特有の殺気立ったような緊張感はこれっぽっちもなく、むしろ逆に古寺のようなのであった。さらに、第三軍はサンティワナー、第五軍はメサロン(メーサロン)にそれぞれ連絡所を設置した。こうした関係は、タイにおける孤軍の合法的な関係を表しているといえる、そしてこの関係こそが、孤軍たちを安全な傘の下に守ることになるのだ。この保護の下、孤軍は生き延びていくことができるであろう。しかし、段希文将軍がこの世を去ったことは、孤軍にとっては打撃であった。

段希文将軍は雲南宜良県出身。彼は、一九六一年の台湾撤退のころからタイに入り、一貫して孤軍の魂でありつづけた。しかし、時勢というものは人間の力よりも強いものである。彼と孤軍は砂浜で困り果てている巨龍のようであった。いろいろな手を尽くして何とか飛び上がろうとするが、まったく変化がないばかりか、風や雲がたくさん出てきて最後には雷までが落ちてくる始末であった。しかし歳月はどんどん過ぎ行くだけで、まったくどうにもならないのであった。彼は彼の部下の|朱心一《チューシンイー》将軍に宛てた手紙の中で、こうした辛酸の日々について触れている。手紙には、

「この頃の情況は昔日に遠く及ばず、山河は変わることなく、人事を尽くしてもすべてが裏目に出るようだ。偶然記憶にあった宋代の詩にいう、『嘆くのみの年月はことごとく過ぎ去って、功名未だ立たず。書生は年老いているのに、機会はめぐりくる。李将軍をして皇帝に謁するが、みな誰一人として足る者はいない』そんな嘆きを禁じ得ないのだ。山地はちょうど雨季に入り、最近は靄がすごい。平和な雰囲気で、都市のごとき賑やかさもなければ人々の争い事もない。こうしてじっと静かに過ごすのもまた、人生の賜物かと思う」

段希文将軍は毀誉褒貶いろいろあれど、その仕事に任ずること二十年におよぶ。中国官僚社会のさまざまな障害や罠と、連中の伝統的な武器である「謀反を企てていると誣告する」という悪弊。それらが彼に毒蛇のように絡み付いて離れないことは彼を悲憤させつづけていた。だいぶ昔になるが、一九六三年、彼はかつて台北から派遣された人員を招いた大きな宴会の席上で、立ち上がってぶち上げたことがある。「ある者が私を、撤退命令に違反したといったらしいが、これは受け入れがたいものだ。私が上層部の命令を奉じているからこそ、いまこうして苦境に陥っているのだ。もし上層部が私に使い出があると考えるのであれば、私はこれからも身を粉にして働こう。だが、もしそうでなければ、すべての手続きをさっぱりと綺麗に済ませて、命令の実行を停止する」彼がこの世を去る二年前の、一九七八年、ある者が、当時内閣総理大臣であったクリアンサック大将に、段希文将軍とタイ共産党が裏で結んでいるとの密告があったが、段希文将軍はクリアンサック大将に報告した。「もしそのような証拠が出てきたら、私は死んで私の志を明かにしたい」また、台北に対しても同じような訴えがあったが、彼は哀しげに反駁しながら言ったのであった。「もし変節するならば、私はとっくに変節しています」

段希文将軍は内外に問題を抱えなから、一九八○年バンコクで病死した。老兵はすでに死して、将器を持つ者はさらに減っていく。孤軍の第三軍と第五軍はまとまりを失って遊離している。これでは、まもなく発生するカオヤイ山の戦闘にいかにして向き合うのだろうか。




関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
Facebook Page
検索フォーム
ブログ記事一覧
プロフィール

deguchik

Author:deguchik
中国語で書かれた作品から、北タイやビルマ(ミャンマー)シャン州、黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)の歴史や風物を読み解いていきます。
個人のFACEBOOKページ
このサイトのFACEBOOKページ

Contact/ご連絡

Your name/お名前:
Your E-mail/メール:
Subject/件名:
Message/本文:

RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。