【金三角 邊区 荒城】 三十 ○四指揮部

三十、○四指揮部
「孤軍は環境劣悪なタイビルマ国境地帯を落ち葉のように漂い続けること二十年。いま、彼らは自らの血と交換に、一握りの土地を手に入れ、やっと安んじて根付き始めることができたのであった」


段希文将軍が開いた軍事会議の席上、ようやくみなは、この一戦が孤軍の存亡を賭けた一戦であることを明確に認識したのであった。その後、第三軍と第五軍の両軍から六百人を選び、混成野戦部隊を編成した。この六百人は孤軍の精兵全員であった。しかし、クリアンサック少将は段希文将軍の作戦計画には同意することはできなかった。このころは、二人の間には友情らしい感情もまだ芽生えていなかった時期である。ただ上司である総理大臣タノム元帥が命令を発したので、彼は上からの命令に従って、彼の役目を果たしていただけであった。タイ国軍が失敗した原因は、正面攻撃にあった、そして、孤軍もまたあえて同じ轍を踏むかのように、正面攻撃作戦を採用するという。こうして両者の間には激論が交わされた。クリアンサック少将は、これは間違いなく自殺行為であると考えていたが、段希文将軍はこの方針を絶対に変えないのであった。そして最後には、段希文将軍は、もしもこの作戦計画を変更するというのなら、彼は総指揮官の任を拒否すると脅した。クリアンサック少将も焦りながら我慢して頷くしかなかった。さらに、段希文将軍はクリアンサック将軍が、この戦闘の終結まで、常に彼の隣にいることを要求した。ここはタイであり、中国の将軍がやりたいように作戦を運用することはできないからであった。クリアンサック将軍は、一カ月の作戦期間でじゅうぶんかと尋ねた。段希文将軍の答えは、

「じゅうぶんです。おそらく一週間で片付くでしょう」

チェンライでの会議から四日。孤軍部隊はチェンコンの市内に賑やかに集結した。クリアンサック少将は眉をしかめた。秘密裏に終結して攻撃を仕掛けるというのは聞いたことがあるが、天下が知らないと困るかのように、わざわざ賑やかに、目立つようにしてというのは聞いたことがない。明らかなのは、山の上の敵は罠を張って待ち受けるだろうということだ。軽機関銃と重機関銃で幾重にも張られた火網によって封鎖されてしまえば、六百名の兵士たちは一人として逃げることができない運命に決められたようなものである。だが、このときクリアンサック少将が見かけたのは五百名の兵士だけだった。四月の雨季入り直前の、とある一日、夜が来て星の光が見え始めた。午後九時ごろ、五百名の孤軍は無反動砲の掩護下を真正面から攻撃を仕掛けていった。

苗族(メオ族)共産勢力の火力は予想外に強かった。孤軍に死傷者が出始めたが、攻撃の勢いは挫けていない。彼らが厳重に命令されているのは、いかなる代償を払うことも恐れず、必ず一気に山の中腹まで攻め上ることであった。段希文将軍も自ら督戦に赴いている。

そのころ、正面からの攻撃が始まるのと時を同じくして、今まさに漕ぎ出そうとしている十二叟の小舟が、バダンの上流約十キロメートルの草叢にいた。燈火もなく、人影も見えない。ただ、オールが小気味よく川の水を掻く音だけが静寂の中から聞こえてくる。小舟はそのままメコン河の南側の岸に沿って河を下っていき、フアモン山の北麓までくると、そこで止まった。そして、カービン銃、手榴弾、そしてタイ政府が臨時に支給した火炎放射器を手にした孤軍の兵士たち百名がこっそりと上陸し、事前に得ていた山道の情報をたよりに、密かに山を登り始めた。

この惨烈な争奪戦は翌日払暁に終息した。孤軍は敵の主力を引きつけるために正面から力攻めにしていたのであった。中国人の戦闘のやり方はタイ人とは違って頑強であった。そのため、敵は一度増援し始めると次々に増援を投入せざるを得なくなっていき、最後には山の後ろ側の防衛部隊まで引き抜いて、全兵力を正面に投入してしまった。そして、孤軍を山の中腹に釘付けにして、安心して一息ついていたころ、後ろの山はまるで無防備になっていたのであった。敵は一部が壊走して、大部分が捕虜になった。しかし、孤軍の損失も重大であった。七十余名が戦死、三百余りが負傷したが、これは全投入兵力のおよそ半分であり、これはタイに撤退してきてから、一回の戦闘では最大の損失で、孤軍は軍の体を成さないほどになっていた。死傷者がメサロン(メーサロン)とサンティワナーに送り返されてきたとき、村中が一塊の大号泣に包まれた。彼らは、夫、息子、親しい人のために哭いたのであった。

クリアンサック少将は、この一戦で中国人に対する印象をがらりと変えた。また、段希文将軍は彼に対して詫びた。先に戦略を伝えられなかったのは、敵の間諜がそこら中にいるため、万一作戦が漏れると、敵は一丁の重機関銃を据えて上陸中の孤軍を掃射するだけで孤軍側は収拾がつかなくなり、後ろ側からの奇襲に失敗するからであった。段希文将軍に対するクリアンサック少将の思いは、崇拝から真の友情へと変わっていった。その後クリアンサック将軍が大将になっても、総理大臣になっても、この友情は変わることがなかった。やがて、「九十三師団」の名声とタイに対する貢献に、タイ人たちも孤軍を受け入れ始めていた。タイ国王自ら段希文将軍に一枚の勲章を授けた。孤軍の勇敢さと忠誠心に報いるためであった。段希文将軍が信を置いているある雲南出身の高級幹部は、その時の心情を私に語ってくれたのであった。

「段将軍は私におっしゃいました。彼の一生で人の前に跪いたのは、彼の祖父に対して一度だけだそうです。ですが叙勲の典礼で、彼は国王に跪きました。タイ国王の愛顧に感激していただけじゃないと思うんです。今までずっと、誰にも言いようのない悲しみを抱え続けていた孤軍を受け入れてくれたことに感激したんだと思います」

流された孤軍の血は、孤軍の末裔たちが今日タイに安住する礎を作り上げたのであった。パータン攻略後、タイ国軍はそこには進駐せず(おそらく彼らはあの場所に耐えられないからであろう)、孤軍に明け渡し、第三軍第五軍の混成部隊に駐屯させ、第三軍の将校である|段國相《ドゥァングゥオシァン》がその部隊の指揮官となった。国防上重要な要塞を孤軍に託しているのだから、これはタイ政府が孤軍を信頼していることを表していると見てよいだろう。さらに、タイ政府は戦死した兵士の家族、負傷者およびその家族に対して、漏れなくタイの国民証を、そして、それ以外の孤軍兵士に対しては、すでに承諾したとおり、居留証を発行した。孤軍は環境劣悪なタイビルマ辺境地区を落ち葉のように漂い続けること二十年。いま、彼らは自らの血と交換に、一握りの土地を手に入れ、やっと安んじて根付き始めることができるのであった。

それから、タイ政府は孤軍の改組を承認した。以後、指揮官段希文将軍、副指揮官李文煥将軍のもと、孤軍は「泰北山区民衆自衛隊」と称することになる。だがいままでのところ、私にははっきりしていないことがある。それは、彼らが使用する武器の問題をどう処理しているのかということである。どのように武器を新しいものに取り替えているのであろうか。これについては、いろいろな人の言い分が一定していないため、私には何が真実なのか判別しきれないのである。比較的信頼がおける説明は、ある孤軍の高級将校が私に言ったのだが、自衛隊の編成では、武装人員は千五百人となっていて、タイ政府はこの数字を基準に弾薬と糧秣の補給を行っているというものだ。しかし、それだけでは武器の更新に関しては説明になっていない。ではどうかというと、タイ国軍最高統帥司令部が作戦に孤軍を必要とする時は、臨時に武器を貸与して、作戦終了後に数を点検して回収するというものだ。こののち勃発するカオヤイ山での戦役でもそうした方法がとられることになる。どうしてこうしたことに極めて厳格なのか。それは言わずもがなであろう。どんなに忠誠を誓っても中国人はやはり中国人に過ぎない。タイの立場から見れば、注意するに越したことはないのである。

タイ政府は孤軍を統御するため、国王の離宮もあるタイ第二の都市チェンマイに、最高統帥部が特別に「名前の無い」指揮部を設置した。チェンマイ国境警備警察○四軍営にその指揮部が設置されたため、一般には「○四指揮部」と呼ばれていた。その後、タイ政府がその指揮部に公式名称を付与したかどうか、人々は定かではない。故に、みなはただ「○四指揮部」といえば、自衛隊(つまり孤軍の)最高司令部であると理解していたのであった。





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