【金三角 邊区 荒城】 二十五 メサロン(メーサロン・美斯樂)

二十五、メサロン(メーサロン・美斯樂)
「塞下秋来風景異、四面泣聲連角起。千嶂裡、長煙落日孤城閉。(※訳注、宋代、范仲淹の漁家傲の詩からの引用。塞下には秋が來て風景は異なる。四面から邊聲が連角に起こり、千嶂の裡、長煙は落日に孤城を閉ざす)」


この当時、タイの北部国境地帯にはまだいかなる防衛線も引かれていなかった。「三軍」と「五軍」は山中の行軍では、お互いに別々に動いて身の置き場を探していたのであった。つまり、この二つの軍は、そもそもともに行動していなかったが、第二次台湾撤退後は、おのおのが生存に全力を尽くしていたので、さらにそうなっていった。だが第三軍は比較的運がよかったようである。もしくは、この第三軍軍団長の李文煥将軍が比較的聡明といえば、それもそうであったろう。彼らはタイ領内に入ってすぐ、一カ所目の村落となるサンティワナーを偶然発見した。基地建設に対する適性を調査させ、即座に司令部所在地とする命令を下した。彼個人は騎馬でチェンマイへ行った。彼の家族がすでにこのタイ第二の都市に豪邸を築いていたからである。

これに比べて第五軍の苦労は大変なものであった。軍団長段希文将軍は軍営を家として、小隊をいくつも出して、モーゼのごとくカナンの地を探しているかのようであった。段希文将軍は事に先んじてタイ北部を探索して、まずは部隊が安全に駐屯できる土地を探したのである。当初は猛安《モンアン》がもっとも適当な土地であると結論づけ、先遣部隊を先に猛安に住まわせた上で、駐屯地の建設を始めさせ、のちに全員を迎え入れる計画であった。しかし、二週間後、全体はすでにメサロン(メーサロン)に到着して、その翌日には猛安へ到着できるというその日になって、猛安では問題が発生していた。水や風土が悪かったのか、マラリアか、風邪か、寄生虫か、誰にも分からない。先遣部隊がみなばたばたと倒れだしたのである。みなは瘴気によるものではないかと考えた。これでは短期間のうちに適応することは不可能である。そして、段希文将軍はメサロン(メーサロン)に司令部を建設することにしたのであった。

メサロン(メーサロン)。中国語では美斯樂と書かれるが、この、バーンヒンテーク(満星疊)同様、詩情に満ちた地名の村落は、ある一篇の文学作品によってこの世に知られることとなった。バーンヒンテークは今回タイが発動した第二次阿片戦争によって一夜にして有名になったが、こうしたニュースによって興奮した人たちには、この村には街の隅々にまで阿片が山積みになっていると思われている。少なくとも、雑貨店や普通の民家にいけばいつでも欲しいだけの阿片が買えると思われていたのであった。この感覚は、二百年前にアメリカカリフォルニア州にはどこにでも黄金があり、街の隅々で黄金を拾えると思われていようなものであろう。

メサロン(メーサロン)もまた同じような運命であった。ここもやはり人にはあまり知られていない。一九八一年になって、このおそらく世界でもっとも寂しい集落のうちの一つであると思われるこの僻村は、台北の「快楽家庭雑誌」に連載された「メサロン物語(メーサロン物語・美斯樂的故事)」によって、人々の知るところとなったのである。しかし、メサロン(メーサロン)が一体この世のどこにあるのか誰も知らないのであった。ポルトガル風のような地名は、聖書に登場する魔女サロメを想像させるし、またある人々は、大西洋かどこかの美しい島を想像するかもしれない。しかしその後、この文学作品において延々と字数を割いて説明されるに及び、また、「快楽家庭雑誌」の膨大な部数ともあいまってか、メサロン(メーサロン)は文学愛好者の間では幅広く認識されるに至った。我々はもともとこのメサロンと孤軍の関係にはつまびらかではないし、この場所こそが孤軍の神経中枢であることなどなおさらであった。我々が知っているメサロン(メーサロン)は、文学作品のペンが描き出した世界の中にある。そう、タイビルマ国境にあり、山々が続く森の中の荒んだ寒村。そして、そこは私たちが窺い知れない異国情緒に満ちているメサロン(メーサロン)である。

孤軍がメサロン(メーサロン)に居を定めてすでに二十年が過ぎている。二十年とは決して短い時間とはいえない。私と妻がこの地を訪れるころ、中国電視が現地で収録したメサロン(メーサロン)と難民集落の映像を放送していた。そうした映像を見た友人たちは、メサロン(メーサロン)の地味の乏しさに驚いていた。私のオフィスにいたある年若き同僚は、じっくり観察してきたような口調でみなにこう言った。「ありゃ絶対全部やらせですよ。あんなにしんどいなんてあり得ないでしょう」そして、私の同意を求めるかのように「全部ご自身で見てきたら、みんなに言ってやってくださいよ。あんなものは全部やらせだって」と言ったのであった。

実は私にも彼の言いたいことは分かるのだ。それは、台湾にいるほぼすべての中国人の心理であるといっていいだろう。我々は長きにわたって異域で三十年も戦い続けてきた孤軍が、最後はこのような仕儀になっていることなど、一人としてまともに受け止められるはずもないのである。彼らは戦闘に勝ち、讃えられ、しかし現在は僻地に打ち捨てられたまま、生死の境を彷徨いながら生きてきた。ともに中国人でありながら、場所が違えば、天と地とのあまりの差に向き合うことになるが、それは、血や涙では埋めきれないほどの大きな違いなのであった。私の妻は香港で生まれて台湾で育ったが、彼女はメサロン(メーサロン)を目の当たりにして、長い間言葉も出なかった。この土地の酷さと貧しさが、暗闇の中の大きな爪のように彼女を捉えて離さなかったのである。私はといえば、こうした村落を見たことがないわけではない。太行山地(河南省の地名)で、河西回廊で、ときには、私の華北にある故郷にいたころでも、子供のころから青年期までの間、中国人たちの貧しさの悲劇を多すぎるほど目撃してきていた。太行山地では、私は糠を食べたことがある。私が思うに、台湾にいる中国人同胞のなかで、糠を食べた人は何人もいないであろう。河西回廊では、砂を敷き布団にしたオンドルで眠ったこともある。おそらく台湾にいる中国人同胞ならば、オンドルなどはさらに知らないに違いない。しかし、私にとってもこうしたことはすでに過去の記憶の中だけにあるものであった。それが今になって突然目の前に展開して、私は度肝を抜かれたのであった。数日して、妻の驚きも収まってきた。彼女は長々とため息をついた。
「私はこんなにも貧しく、苦労している人々を見たことがない」

彼女はさらにしばらくして、自らの浅薄さと無知を身をもって知ることになる。タイ北部にある難民村の中で、このメサロン(メーサロン)こそがもっとも豊かな村であると知ったとき。彼女の涙は堰を切って流れ出したのである。

我々はこのメサロン(メーサロン)を描写する術を知らない。私は中国電視の映像も見ていないが、基本的に、映像というものが実際よりもきれいに見えるということを考えれば、おそらく正確な印象を残すことは難しいであろうし、立体模型だけがそのような景観を説明できるのであろう。村落でもっとも賑やかな一本の大通りには名前もない、みなはただ「大通り」と呼んでいるだけである。メサロン(メーサロン)全体が山道の上に建設されており、そのもっとも賑やかな大通りはまるで児童公園の滑り台のようである。三十度前後に切り立った急角度な坂道、もしこれを街と呼んでいいのであれば、通りの上はまさに溝だらけである。人や馬はいつも、大小さまざまな大きさの石に足を取られている。両脇には竹で編んでその上から泥を塗りつけてある壁、トタン屋根の建物が並んでいる。大通りの「騾馬市」が市場である。午前十一時ごろがもっとも賑やかになる。少数民族たちは騾馬に彼らのわずかな品物を載せてこの市に集まってくる。赤貧の孤軍末裔の中には、まだこの時代になっても山で刈ってきた柴を背負ってきて売っているのであった。日中が過ぎると、メサロン(メーサロン)は静まり返る。もちろん、あのもっとも賑やかだった大通りでさえも、まるで人っ子一人いなくなって、やがては暗闇に呑まれてゆく。そして、典型的な僻地の村となってゆくのであった。




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