【金三角 邊区 荒城】 四十二 荒山の別れ

四十二、荒山の別れ
「最後の一人の中泰難民支援服務団団員が引き上げるとき、傷痍軍人たちは列をなして彼を見送った。突然、彼らは身を乗り出して彼に抱きつき、子供のように声をあげて号泣した」


私がメサロン(メーサロン)を去るとき、今生の別れの悲しみに咽ぶ光景を目にした。この光景は、「中泰難民支援服務団」の最後の一人の団員がメサロン(メーサロン)を撤収する時の光景であった。

この「中泰難民支援服務団」は、女流作家の曾焔さんと同様、多大な貢献と、たくさんの成果を残しながらも、あまり世に知られることがない。遠く遡ること一九七八年、カンボジア難民がタイに大勢逃れてきた。国連および世界各国は震撼して、すぐさま救済を開始した。その難民のうち約二十パーセントが華僑系であったにもかかわらず、我々はこの状況を無為無策のまま黙って眺めているしかなかったのである。何度かの折衝を経て、この困った状態は、中国人権協会理事長の|杭立武《ハンリーウー》氏によって解決した。彼は台湾代表部代表としてタイに駐在していた期間に、タイ政府の高官たちと濃厚な私的友人関係を築いていた。そして両国の民間団体が顔を合わせて、中国人権協会が経費を全額負担する「中泰難民支援服務団」が発足し、台北から短大卒、大卒の青年人材を逐次送り込み、難民キャンプでの活動に入った。

おそらくここで説明しておかなければならないことが一点ある。タイ北部孤軍難民集落群は「難民村」と称するが、タイ東部のカンボジアから流れ出てきた難民の集落群は「難民キャンプ」と称する。「村」の含意は永久居住で、一方の「キャンプ」は一時的なものを指し、難民たちの帰還作業が終了すれば、その「キャンプ」は撤収する。

中泰難民支援服務団はもともと、カンボジア難民を支援するために設置された機関である。しかし、去年(一九八一年)の雨季が過ぎたころ、四名の団員がタイ北部の難民村に遠征した。バンコクに駐在する中国人権協会の秘書、|王福邁《ワンフーマイ》さんは、こうした彼らの行動が本来の仕事の範囲を逸脱していると知りながら、あえて一台だけしか所有していないジープを使わせた。しかし、たどり着いた彼ら若き台湾からの訪問者を待っていたのは、メサロン(メーサロン)の冷たい眼であった。

四人の団員のうちもっとも年長の|韓定國《ハンディングオ》さんは、情況がよく飲み込めていないために批難されたりもしたのだが、難民のため貢献せんとする溢れ出る情熱と精神には、確かに人々は感じ入るものがあった。彼の母親が彼に会うためだけにわざわざバンコクへ出てきたときも、さっさと難民キャンプへ向かったあとで、母親は一人ホテルで泣くしかなかった。韓定國さんと、彼の仲間たちは、どのように取り組むか考えあぐねていたこの寒村で、最終的に絞り込んだのは、傷痍軍人であった。彼らはカオヤイ山での戦役、あるいはそれ以外の小さな戦闘で、手足をもぎ取られたり、神経を病んだりしている戦士たちであったが、毎月たったの百五十バーツ(三百台湾元。煙草にすればスリーファイブ六箱分のわずかな額だ)の手当てを支給されていた。百五十バーツといえば、歯ブラシ、歯磨き粉、タオル、石けんだけでもすべて遣いきってしまうような金額であって、彼らが次の月の百五十バーツをもらえるまでは、物乞いをして暮らさなければならない。これは、骨の髄から震え上がる光景といわざるを得ないが、彼らはタイ政府が負傷兵に対して恩賜したタイの国民証を首から下げて、街を行ったり来たりしていた。両足がない者は、這って歩くしかない。そうして一軒一軒の家を回り、余ったおかずや飯の喜捨を受けている。そして、彼らは同時に祖国世論が英雄と称した人物たちなのである。

この四人の若者たちは、メサロン(メーサロン)郊外の丘の上に「榮民之家(栄民の家)」を建設した。雷雨田将軍の協力を仰いだとはいえ、頑張って集まってきたのは二十余名の傷痍軍人たちであった。団員たちは彼ら傷痍軍人たちに手工芸の技術を伝授した。いつの日か、メサロン(メーサロン)が観光地に生まれ変わったとき、彼らが身につけた手工芸の成果が商品に反映されて、生活を改善し、それによってメサロン(メーサロン)が発展することを願っていた。現在のメサロン(メーサロン)では、まだ一つの記念品も作られていないのである。

冷酷な現実のせいですっかり凍りついてしまった傷痍軍人たちの心は、団員たちの溶岩のように熱い骨肉の愛に接して、少しずつ融け始めていった。もとは台北の貿易会社にいた美しき女性団員、|謝安宜《シエアンイー》さんは、彼ら傷痍軍人の鼻をつまみたくなるような臭いを発するぼろぼろの衣服を洗濯し、ときには彼らを入浴させたりもしていた。彼らは自分たちの人生に、まだこうした温かみに触れる機会がめぐりくることなど思いもよらなかったし、それによって、固く凍っていた氷が春の日差しで融け出したあとの黄河のように、心の中にずっと抑え込まれていた感情が突然吹き出してきて、彼らの語り尽くせぬ身の上話、やり切れない悲しみ、メサロン(メーサロン)の物語、バーンヒンテークの内幕、さらには全身に震えがくるような惨劇など、一つ一つ団員たちに吐露し出した。これは孤軍ではもっとも下層の人々たちの、もっとも深く隠された心の声でもあったのだ。

台湾省立屏東農業専門学校を卒業した|呉英明《ウーインミン》さんは、一人の木訥な青年だが、在学中に手工芸を習っていた経歴があって、この重大な責任は彼の肩に載せられた。彼は母親が子供に箸の使い方を教えるように、竹の素材を使った花瓶や花籠の作り方を根気強く傷痍軍人たちに教えた。また、「メサロン(メーサロン)茶」を盛るための木製のお盆の彫刻や製作方法なども教えた。金山銀山もやがては堀り尽くすが、一度手にした技術は何度も使えて掘り尽くされる心配のない一生ものの宝になる。傷痍軍人たちはこうして胸のうちを解き放っていくうちに、自尊心を取り戻してきて、祖国の子供たちが彼らに与えるこうした技術をやがては身につけて、新しく生まれ変わったあとの遠くの目標も見えるようになってきた。

しかし、バーンヒンテークの戦闘が勃発したのも、まさにそうした時であった。ここから遙か遠くのバンコクにある遠東商務代表處(いわゆる台湾の大使館)代表(つまり大使)の沈克勤氏は人権協会の王福邁さんに服務団員たちを即刻撤退させるよう命じた。「一人でも死んだら、我々全員が去ることになる」彼は団員たちの生命を案じていたのではなく、さらには、傷痍軍人たちの技術習得が中途半端に打ち捨てられることもまるで気にせず、ただ、自分の官位だけを気にしていたのであった。

しかし、団員たちの辛い活動は成果を上げ始めて、傷痍軍人たちが、ふたたび、世のため人のためになれるという感覚を取り戻してきていたし、このうらぶれて沈み込んでいたメサロン(メーサロン)全体にも、彼ら若い団員たちに鼓舞されたかのように、生きる喜びが巻き起こってきていた。雷雨田将軍にしても、この数年でこうした現象に感動したのは初めてであったので、沈克勤氏に電報を打ち、彼らが継続してこの地に留まることを認めるよう要求した。沈克勤氏は一度は約束して、雷雨田将軍に懇請した。「引き留められる団員たちの名簿をこちらに送ってください」

名簿はすぐさま電報でバンコクへ送られた。もちろん彼らはいい結果を期待していたし、もしだめなら、そもそもあれほど真剣に名簿の送付を依頼したりはしないだろうと思っていた。しかし、いつのまにか状況はすでに定まっており、これは役人たちの一種の芸術的なことの運び方であって、目的はただ、メサロン(メーサロン)の感情が収まることを期待していただけなのであった。

やがて、傷痍軍人たちは、ついに恩師たちがこの地を去らなければならず、彼らにしても引き留める術がないことを知り、眠る時間でさえも工具を手放さなかった。何人かは夜を徹して、涙を流しながら竹を編み続けていた。私がこの地を最後に去ることになっていた呉英明君を迎えにいき、私とともにメサロン(メーサロン)を去ろうとするとき、傷痍軍人たちは列をなして彼を見送り、最後の言葉を待った。突然、彼らは彼に抱きつき、子供のように大きな声を放って号泣した。彼らが悲痛を感じているのは、また空っぽになること、そして、また棄てられてしまうことであった。手工芸品はまだ半分しか学んでいない。彼らは何とか苦労して運営してきた「榮民之家」がやがて荒れ果てて、彼らはまた馴染みの街角に出て食を乞う日々に戻ることを恐れていたのであった。

私はここまで書き進んだが、あのときメサロン(メーサロン)に響いた泣き声が耳に蘇ってくるようで、思わずペンを置いて嘆息をついた。彼蒼蒼者天、曷其有極(※訳注、仰ぎ見る紺碧の空、山の頂上は一体どこにあるのか)。




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