【金三角 邊区 荒城】 三十七 四つの誓い

三十七、四つの誓い
「彼らを愛するならば、我々は落ち着いて彼らの誓いを支持し、さらに、その誓いが実践されるよう、彼らを励ましていくべきだ」


かつてメサロン(メーサロン)には病院が一つだけあった。今から約五年前、美しい社会主義の看板を掲げながら、行いといえば封建専制同然の祖国から、あるビルマ国籍の医師が、泡を食ってメサロン(メーサロン)に逃げ込んできたことがあった。孤軍に対して保護を求めてきた彼は、いつか恩に報いようという気持ちがあったようだ。段希文将軍は、もしこの地に残る気があれば、孤軍は彼のために病院を建設してもよいがと、彼に尋ねたことがある。彼は誠実かつ大変感激した様子で、それに答えた。しかし、その後、その病院が竣工すると、その医師はすでにバンコクにいる親友と連絡が取れていた。おそらく、合わせる顔がないと思ったのであろうが、医薬品を仕入れに行くといって出かけたきり戻らなかった。孤軍は彼が離れて行ったことを恨んでいるわけではない。メサロン(メーサロン)は大変貧しい。だが、貧しい人々は、医師の愛情を望むなどというのは、とても贅沢なことだと思っている。だが、彼らが彼を恨むのは、彼らの限られた精力と財力を浪費させたことであった。メサロン(メーサロン)の病院は、村落の谷間の底の小高い丘の上にあり、この村に三つしかない現代建築物のうちの一つである。あとの二つは、○四指揮部連絡所と学校の教室であった。病院建設に使われたレンガ一つ、瓦一枚はみな、この地から百キロ離れたチェンライから運び込んできたものだ。しかし今となっては、空っぽのままそこに建っているにすぎない。釘で打ち付けられた「待合室」の小さな札が寂しくぶら下がった、患者たちが座るために用意された長椅子の前の壁。門と窓は締め切ったままである。

この病院は一つの典型的な、心の傷の例に過ぎない。こうした出来事は孤軍の生活には枚挙に暇がないのであった。このあと我々は「中泰難民支援服務団」が果たした貢献とその撤退に触れるが、これもまたもう一つの失望といえる。だが、孤軍にすれば、失望は一種の正常な状態なのであった。

孤軍のうらぶれた境遇とは、貧苦と絶望が永遠に彼らの体にまとわりつくことであった。祖国の政府は、援助の手を差し伸べようとしても差し伸べることができない。一見すると複雑だが、実は非常に簡単なのだ。第二次台湾撤退以前のように、武器弾薬から正規軍としての給与などを次々に提供することなど、国際情勢が許すはずがないのであった。祖国の心と心がつながるような骨肉の情から出る支援は、すべて中国大陸救災総会(救総)を通じて、難民救済型の方式でのみ進められていた。こうした支援は時々紆余曲折を辿らざるを得ないのであった。たとえば、果樹の苗木などだ。大量の苗木を難民の集落群に運び込むなどということは、実際誰にもできないし、たとえばそれは、巨大な財力をもってしても不可能なのであった。なぜならそれは、国際的な、あるいはタイ国内から、打てば響くように予想どおりの注意を引くからなのであった。それゆえ「救総」は、この大量の果樹の苗木を、まずはタイ政府に贈呈しなければならなかったし、タイ政府が受け取ってからは、まず自ら必要なぶんとして大部分を控除したのちに、わずかな量を孤軍に引き渡したのであった。だが、これはこれで、すでに十分な量ではあった。メサロン(メーサロン)の村の入り口にある一件の果樹農家、|伍丕榮《ウーピーロン》という若者はまさしくこの果樹の苗木を使って彼らの果樹園を作ったのであった。

段希文将軍の時代には、中華文明本位のつながりが残っており、その態度は強硬であった。メサロン(メーサロン)に開かれた|興華《シンホァ》中学は中国語で授業を行い、中国語を教え、中国国旗を掲げていた。孤軍は、体制上タイの○四指揮部に所属する自衛隊であるが、心の中はずっと自分たちがあくまで中国の武装勢力であると定義していた。台湾に住む中国人から見れば、彼らのこうした様子は、心の底からの感動を呼び起こさずにはいられないものであり、その感動が極まったとき、彼らがその身を異域に置きながらも、心ではまっすぐに祖国のことを思い続けている悲壮な心情に対して、議論も称讃も抑えることができないのであった。しかし、これはあくまで情緒の上での満足に過ぎない。さらに問題なのは、孤軍末裔たちが、竹籠に閉じ込められた家鴨のように、痩せた土地しかない農村にしか存在できないようにしてしまっていたことだ。自身の手で自分たちをくるくる回して、さらにはタイ当局の保護下にあって、自らの力は日を追うごとに衰亡していった。タイは孤軍のことなど何とも思っていない。全世界を捜しても、タイのように義に感じて中国人を収容して、武装を維持することを許す国などは見つけようがないだろう。だが、彼らにしても国内にもう一つ国があるような状態を、長期に渡って認め続けることはできないし、さらに言えば、その彼らの保護下にある武力が、別の国家に忠誠を誓うことを認めるなど、さらにできないことであった。

雷雨田将軍は十年二十年どころか百年先を見通していた。孤軍は台湾にいる同胞たちの情緒に寄りかかって生きていくことはできない。彼は、二つの措置をとることにした。

第一、彼は孤軍の立場を強烈に表明しようとした。
第二、彼は中華学校をタイ国の教育制度に編入しようとした。

メサロン(メーサロン)の驢馬市の入り口に、孤軍が立てた巨大な告示看板には、難民集落に住む居民たちの誓いの言葉がタイ語と中国語で書かれている。

一、我々は、国家の法律を遵守してこれに従い、国家の命令に服従する。
二、我々は、生命にかえても我々が生存する国土を守り抜く。
三、我々は、忠誠をもって国王陛下と皇族を上に擁し戴く。
四、我々は、この身と生命をもって王室制度を守り抜く。

孤軍がタイの国王に対して忠誠を誓うというこの一連の状況には、落ちぶれたものの失意や悲哀も感じさせられる。しかし、もし我々が彼ら孤軍を愛しているのなら、彼らはこの地に流れ着いた、悲しくて何も言わない我々の同胞なのであり、我々は心を落ち着かせて、彼らの誓いを支持し、さらに、その誓いが実践されるよう、彼らを励ましていくべきだ。タイの野心的な政治家たちは、こうした孤軍の忠誠は見せかけだと指弾する。「この告示はタイ語が中国語の上に書いてある。これで明らかなことは、タイ人に見せつけるために作ったものに違いない。メサロン(メーサロン)にはタイ語のできる中国人は非常に少ないのだ。もしこれが本心なら、中国語だけを書けばじゅうぶんなはずだ」さらに彼らは叫ぶのである。「九十三師団(孤軍)に気をつけろ」我々は信じている。誓いは誓い以外の何ものでもない。捨てられた子供にとって、生母を忘れることは永遠にできないが、養母の恩もまた山のごとく重いものなのである。同じ道理で、養母の恩は山のごとく重いものであったとしても、孤軍末裔たちの心は、永遠に生母と遠く離れることはない。誓いの言葉は、彼らの生母に対する懐かしさをさらに募らせているのであった。




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