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【金三角 邊区 荒城】 三十三 タイの脊椎を断つ

三十三、タイの脊椎を断つ
「タイ共産党は鉄道の切断を準備している。一旦切断されれば、タイの中南部は難民の渦に呑み込まれてしまうであろう。バンコクは第二のサイゴンになってしまう」


段希文将軍がこの世を去ってから、彼の参謀長であった|雷雨田《レイユーティェン》将軍が第五軍軍団長を引き継ぎ、その身分のまま「泰北山区民衆自衛隊」の指揮官も引き継いだ。段希文将軍の棺をメサロン(メーサロン)で受け取ると、メサロン(メーサロン)の郊外にある丘に墓を作って埋葬した。

段希文将軍の死後まだ間もないころ、孤軍の士気は定まっていなかったが、○四指揮部は孤軍にカオヤイ山への出撃を命令してきた。

カオヤイ山は中国の泰山とは違い、平原に屹立していながら、一山また一山と、まるで無数の大きな山々のなかにある一つの険要な山峰であった。タイの精密な地図をみても、どこが山と山の境界線なのかはっきりとせず、峰と峰の位置関係や正確な名称も不明瞭である。いつから始まったのか定かではないが、タイ政府の推測によれば、一九五九年か、一九六○年ごろ、あるいはそれよりも早い時期から、「異動分子」と呼ばれるタイ共産党がこの険要な山の峰の上に秘密基地を建設していて、二十余年来、この場所は一つの完結した自給自足の独立王国のようであった。そしてそこにはタイ政府やタイ王室に反対するあらゆる勢力が集結していた。タイの急進的な学生活動家や変り者の政治家、一旗揚げようと狙う投機分子や野心家などがぞろぞろと身を寄せていたのである。タイ共産党はカオヤイ山付近の、この世から取り残されたような山地の村落をすでにしっかりと組織化していた。まったく人の目に付かない隠密な環境で積極的に建設を進めたため、タイ政府は当初まったく気付かず、気付いたとしても、わずかな数のとるに足りない匪賊に過ぎないと考えていたようで、そうした情況の異変に気付いたときは時すでに遅く、カオヤイ山は鉄壁の要塞と化していたのであった。

タイ政府がその異変に気付き始めたのは、一九七○年代からであった。タイは、領土の完全な保持を期するため、軍事的な機動性を高める政策を進め、国内各地で戦略道路の建設を始めていた。たとえば、チェンライからバーンヒンテークやメサロン(メーサロン)に至る国道は、そうした膨大な国防計画の一部として建設されたものである。「異動分子」と呼ばれる彼ら武装集団は、当然のことながら、命に代えてもこの計画を阻止することを誓った。一昔前のアメリカ西部を開拓した荒くれ者たちが、西部へ向かう大陸横断鉄道の建設を命をかけて阻止したのように、彼らもまた、流血を伴う手段を厭わないのであった。

地図上でもこのカオヤイ山の重要性は十分見て取れる。メソート(※タイ中西部ビルマ国境の町)からワンスプーン(※タイ東北部米軍基地があるウドンターニーのすぐ近く)の間は、戦略上重要な意義を持つばかりか、タイにとって極めて重要な第一級の国内横断道路であったし、西部と東部をつなぐ経済的にも重要な意義を持つ道路である。一九七八年、この道路は民間企業に外注委託して着工され、この企業はピッサヌローク(※タイ中部の大きな町)を中心にして、東西の両方向に向かって道路を建設を進めていた。そして、東側に進む建設工事がカオヤイ山地に差し掛かったとき、タイの報道によると「トラブルに巻き込まれた」のであったが、実のところそれは、トラブルなどではなく残虐行為であって、道路建設に従事していた工夫は豚のように縛り上げられて虐殺されていたのであった。そして、彼らの宿舎もまた燃やされてしまったのである。

タイ国軍は賊の討伐に出動したが、その討伐は毎回タイ共産党側からの反撃を受けていて、しまいには道路建設工事そのものが停頓した。さらに危険だったのは、最高統帥部が一九七九年の冬に得た情報では、タイ共産党はいずれ世間を震撼させるような大攻勢を準備していて、その際、鉄道を遮断して、メソート以北の苗族共産勢力と合流するというのであった。一人一人、仏像のように座ったまましばらく呆然として、やがて互いに数個の言葉を交わしたのち、総理大臣に即座に報告に行った。彼らは誰一人として、こうした恐るべき変化に向き合うことなど思いもしなかったのであった。ある最高統帥部の参謀が、このときに高級将校たちが受けたショックをこう形容している。バンコクとチェンマイの鉄道が遮断されると、それはほぼ、タイの背骨が真っ二つに割られるような状態に等しい。タイ北部は即座に混乱に陥り、行政組織や民心、士気も、同時に瓦解するであろう。また、隔絶された北部国境地帯にいるタイ軍部隊と孤軍は、この危機を救うどころか、自らの身さえも危ういのであった。そして、タイ中南部は溢れかえる難民に呑み込まれてしまう。読者はおそらく南ベトナムが覆滅する前の晩のことを覚えているはずだ。何千何万という難民が陸続とサイゴンに向かう悲惨な光景である。そして、バンコクは、第二のサイゴンになるだろう。

最高統帥部の極秘情報のなかに、ある「大征伐」計画が定められていた。タイ国軍の精鋭である「黒豹部隊」二個連隊のほか、さらに、「泰北山区民衆自衛隊」五百人の動員計画が存在していた。しかし、この作戦については彼らには伏せられており、表面上は後備の兵力とされていた。この作戦計画が雷雨田将軍に提出されたとき、彼にはこれが典型的な「書生談兵(※書生が兵を語る。所詮は素人が思いつく机上の作戦)」に思われたのであった。

雷雨田将軍が私を接待してくれた晩餐で、私は彼に、タイ側が出してきた作戦計画のどの部分から「書生談兵」を感じ取ったのか説明を求めた。

「タイの将校は、多くがアメリカのウエストポイントで教育を受けている。父親の本を受け継ぐように戦い、おそらくさらによく戦う。みなそれぞれ名将には違いないからだ。しかし、受け継がれた戦法で作戦を立てれば、かえって全軍は覆滅してしまうのだ」

私は例を挙げてもらった。

「たとえば、タイ軍の計画では、最初に絨毯爆撃を行い、さらにそれから、強力な戦闘機による掩護下で、黒豹部隊は五つのルートから攻め上り、カオヤイ山に向かって扇形に包み込むような形で攻撃を仕掛けることになっている。各縦隊は相互に呼応しあって支援しながら一歩一歩進み、最後にタイ共産党を袋の鼠にする」

「それ以外にさらにいい作戦がないようにも思いますが」

「それはあなたが書生だからだ」雷将軍は言った。「第一に、タイにはそれほどの空軍力がない。第二に、一旦兵を五つのルートに分けると、縦隊と縦隊の間は、地図の上では同じ長さで二キロ三キロに過ぎない。だが、それは平地の二キロ三キロではなく、山地での二キロ三キロだ。それに間にはたぶん山があるだろう。そういう山は、特殊訓練を受けた山岳部隊でも、一日二日かけてやっと越えられるものだ。つまり、互いに連絡も取れず、支援もできないことになる。タイ共産党は、それぞれの山や谷に数十名配置するだけで、山全体が一つの袋型の陣になり、そこへ黒豹部隊を誘い込んで、二丁の機関銃で彼らを釘付けにすれば、すでに前に進むこともできず、かつ引くこともできなくなる」

たしかに筋が通っている。説得力があって相手を納得させることができる。だが、どうなのか。

「タイ軍は作戦計画の変更を許さない」雷雨田将軍はいう。「彼らの作戦計画は総理大臣が批准したものだ。だが私は孤軍が分散しないよう要求した。一旦銃撃戦が始まると、ばらばらに分散した部隊の再集結はない。彼らは渋々ながら同意してくれたがね」

そうして孤軍は三・五両軍からそれぞれ二百五十人ずつ、合計五百人を選び、二つの部門に分けた。第三軍の三一部、第五軍の五一部である。第三軍に所属する師団長|陳茂修《チェンモーシゥ》将軍が指揮官を担任、第五軍に所属する副師団長楊維綱将軍が、前線指揮を担任する。この楊維綱将軍こそは、十年前、タイ政府が孤軍の武装解除を行ったときに、軍法違反の危険を犯して銃器を隠匿し、孤軍を救ったあの小隊長である。




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