【金三角 邊区 荒城】 二十七 武装解除

二十七、武装解除
「銃を手にしたその時、孤軍たちは思わずにはいられなかった。一度銃がこの手を離れたら、それはそのまま永遠の別れとなる。彼らは英雄として最期の涙を流した。」


孤軍はいつも、撤退とまた撤退の間に活路を求めて生きてきたようなものであった。戦いに破れれば死亡、それも、誰にも知られずに。全世界、誰も彼らのことを覚えてはいない。私がちょうど事務所で文章と格闘していたときのことだ。アメリカのワシントンで「ベトナム戦争記念堂」工事が着工して、ベトナム戦争で殉職した五万余名の姓名を碑に刻むというニュースが流れてきた。アメリカのベトナムにおける戦争は不名誉な、善くない戦争とされていて、アメリカ人ですら唾棄すべきものであった。しかし、彼らは戦死した兵士たちをちゃんと覚えているのだ。では孤軍はどうか。戦死すれば草木とともに朽ち果て、勝てば勝ったでまたさらに大きな打撃に晒される。一度勝てば、さらに大きな打撃に見舞われた。いまは、北タイでやっとのこと生きる道を確保したら、また災難が降りかかってきた。

段希文将軍は軍事のプロというだけでなく、腕のいい外交官であり、遠くを見通せる政治家でもあった。孤軍はいつの日か、タイ政府の厳しい措置に向き合わなければならないことを、彼はすでに知っていたのだ。なぜなら、彼らが身を置いている場所は、誰がなんと言おうと、やはりそこはタイの領土であったからである。彼は、あらゆる方法、例えば、外部から回り込んでうまくやる方法を使った。タイの政府高官と私的な友好関係を築き上げることにすでに成功していたのである。こうした成功は、一つの事件からも見て取れる。一九八○年に段希文がバンコクで客死してメサロン(メーサロン)に遺体が戻ってきたとき、棺にはタイの国旗が掛けられ、軍用機が空を飛び、多くの将校が集まってきた。なかでも、クリアンサック大将は、葬儀のあと彼がいつも愛用しているタバコを棺の上に置いて、良き友との別れとしたのであった。

しかし、私的な友人関係は、爆発を遅らせたり、その被害を減らすることはできても、やはり、爆発そのものを阻止することはできないのであった。

タイ政府は各方面からの圧力を受け、ついに耐えきれなくなっていった。いわゆる「異動分子」は表立っては何もできないが、タイ国民の民族感情や国家の尊厳を上手に利用して影で煽っていた。同時に、孤軍に関する件でうまい汁を吸えなかった官僚たちは、彼らの社会的地位をちらつかせ続けたのであった。そうしてついにこの件は一つの世論となるほど大きくなっていったのである。バンコクの街頭デモで叫ぶ学生達。彼らの声は、タイの領土は神聖にして冒されるべからず、外国軍隊がタイの国土に存在することを許すなということであった。「行きたいところに行けばよいし、誰かと戦いたいなら勝手に戦えばよいではないか」

タイ政府はこうした事情で孤軍に対して、タイ領土からの退去か武装解除の二者択一を迫るしかなかったが、一筋の方向をそれとなく指し示し、それなりに、孤軍のため若干の配慮も見せていたことになる。仮に、タイ領土からの退去のみを強硬に要求すれば、恐るべき孤軍の抵抗が予想された。さらに、権力の座にあるタイの官僚たちで、公表できないような私的な理由がある者はともかく、内心では孤軍が出ていくことを願う者はいなかった。その上、こうした官僚たちの国を思う気持ちもあるだろう。タイ共産党との戦いが武装闘争の局面に入っている段階で、彼ら官僚たちは、タイ国軍の作戦能力を深く知り抜いていた。もっといってしまえば、「毒をもって毒を制す」は世界公認ともいうべき最高の謀略である。これなら、死ぬのはどうせ中国人、流れるのは中国人の血、タイに何の損失があろうか。唯一の損失は彼らに荒れ山をくれてやるだけであって、それで彼らを養えばよい。

タイを出てどこへ行けばいいのか。根本的に考えれば、孤軍に選択の余地はないのであった。台北との関係はすでに断絶しており、もし国際社会が虎視眈々と見つめる中、彼らが台湾へ撤退などすれば、状況はさらに複雑になっていってしまう。それではビルマにいたころのように武力で対抗するか。今日は昔日に非ず。孤軍はすでに老いているのであった。

生き残る唯一の道は、武装解除のみが残されることになる。伝統的な観念では、武器は軍人にとって第二の生命といっていい。俗にいう「銃ありてまた人あり、銃なくしてまた人なし」である。しかし、いかなる状況下においても、他人に死んでくれと要求することはできないであろう。おおよそ、他人に対して死んでくれなどと要求するような輩は、ひたすら厄介事を逃れることに汲々としているような怯懦の輩であるし、この世には、死よりもさらに重要で困難な仕事だってある。孤軍幹部は連日徹夜の会議を開いていたが、その実、会議を開いたところで何かいい結果が出るというわけでもない。彼らは採らざるを得ない道が決まっていて、決定を下さなければならないだけであった。

一九六二年初春、孤軍はメサロン(メーサロン)とアカ族の村の間にある丘に集まった。二十余列に並んで、列と列の間に幅をとって整列した。タイ政府が特派したチャチャイ少将(彼は、ナイピン元帥の娘婿で、ナイパオ将軍の妹の夫である)が、一個中隊を率いて接収に着ていた。司令台の上には、青天白日旗とタイの国旗が高く掲げられていて、チャチャイ少将と段希文将軍はその下に肩を並べて立っている。まず、本来なら、段希文将軍がスピーチをするところだが、彼は固辞してチャチャイ少将に先にスピーチするように勧めた。チャチャイ少将はまず、タイ政府の立場を説明し、孤軍の協力に感謝の意を示すと、続いて政府の承諾事項を説明した。武装解除ののち、種子や苗などを孤軍に提供し、みなが戦争状態から一日も早く抜け出せるよう支援するので、これからは開墾などに従事して平和に暮らしてほしいということである。

チャチャイ少将のスピーチのあと、段希文将軍が返礼のスピーチをしなければならないはずだった。だが、彼は無言でさっとチャチャイ少将に振り返って、厳粛な敬礼をすると、腰に下げている拳銃を外して両手で捧げ持った。チャチャイ少将は驚きながらこれを受け取り、さらに厳粛な敬礼で段希文将軍に応えたのであった。そして、段希文将軍は孤軍兵士たちの方へ向き直ると、右手を挙げ、全員がその意志を理解すると、その手を下ろした。台上の青天白日旗がするすると下ろされ、そしてこれが合図となっていた。孤軍たちは、銃を置き始める。銃を置きながら、このぼろぼろの軍服を着た精神的にも疲れ切った、それもみな中年に差し掛かっている兵士たちは思っていた。いまここで銃を手放せば、この銃と永遠に別れることになる。その刹那、ある者は涙を流し、ある者は地上にがっくりと跪き、またある者は両腕の間に頭を垂れて声も出さずに大泣きしている。「将軍百戦聲名裂、向河梁、回頭萬里、故人長絶(※訳注、辛棄疾の詩の一節。将軍百戦にして声名は裂け、橋に向かい万里を振り返れば、故人は絶えて長き)」十五年の長い苦戦はただ、「不啼清涙長啼血(涙も流れず血を流しただけ)」であった。

チャチャイ少将も、この様子に蒼然として、彼もまた軍人の末路に戦慄していたのであった。段希文将軍が先ほど手渡したピストルを、軍隊の礼をもって彼に返した。段希文将軍が訝るようにチャチャイ少将を見ている。彼は低い声で段希文将軍につぶやいたのであった。「将軍、これはお納めください。あなたたちは武器を手放すべきではない。一度武器を手放せば、あなたたちはすぐに血まみれになってしまう」




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