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【金三角 邊区 荒城】 三 麻薬王朝

三、麻薬王朝
「|羅星漢《ルォシンハン》。ビルマ領内のコーカン地区を根城とするこの一匹狼は、環境劣悪、台湾の四倍の僻地に麻薬王朝を開いた」


タイビルマ国境地帯でタイが空陸からバーンヒンテークを攻撃したことで、山の中に深く隠れていた武装部隊の首領とはいえ、誰もがかつて見たことも聞いたこともないクンサーは突如として有名人となり、その名は世界中に広まった。タイ語や中国語の新聞雑誌、毎日放送されるテレビの特別番組など、タイのマスメディアは十数日間にわたって、彼のニュースを追った。アメリカで発行されているニューズウィーク誌も長編のルポを掲載。香港で発行されているアジアウィークはクンサーの写真を表紙に使った。彼の外見は個性的であって、また、同時に掲載された、彼が「シャン州革命軍」を閲兵する盛大な場面は読者に深い印象を刻んだ。先代の羅星漢と比較すると、羅星漢には別な種類の雰囲気が感じられる。私は羅星漢の写真を見たことがあるが、それは非常に写実的なショットであった。彼は一人原野に立ち、にこやかで暖かい感じがして、一人の平凡な書生を彷彿とさせるものだった。

クンサーを理解する前に、まずはこの麻薬王朝の創始者、羅星漢を理解せねばならない。

羅星漢はかつて、アメリカ、リーダーズダイジェスト誌のポール記者に「阿片将軍」と名付けられた。羅星漢の時代(一九六○年代から一九七○年代にかけて)、黄金の三角地帯の首府はタイのバーンヒンテークではなく、ビルマのタチレクであった。ここはタイの国境の街メーサイとは橋一つ跨いだ向いにある。彼はビルマのコーカン地区の小さな街で生まれた。コーカン地区はビルマ東部に位置し、中国の鎮康県と接している。一九五○年代においては、「異域」の孤軍の重要な根拠地は一度ここに置かれていた。その孤軍がいろいろな場所で奮戦していた当時、羅星漢はまだたった十歳の子供だったが、孤軍に付き従ってきて、彼らの中で少年兵になった。通信の手紙を持って駆け回り、孤軍兵士たちに可愛がられ、ある証言によると、彼の羅星漢という氏名は、孤軍兵士たちが彼に名付けたものだという。彼のビルマ名はもともとウィンマウンであった。彼はそうしてずっと孤軍の第一次台湾撤退(「異域」で描かれている物語はここまでである)まで兵士たちとともにあり、そしてその後、彼の成長が始まるのである。孤軍の第二次台湾撤退後、ビルマ政府はビルマ東部シャン州地区で決定的な過ちを犯してしまう。そして、それは彼が頭角をあらわすきっかけとなったのであった。

この決定的な過ちとは、ビルマ政府の背信に起因している。一九四七年ビルマが英国から独立する一年前に、ビルマ独立運動の指導者アウンサン将軍は、パンロンで連邦を組織する会議を開いた。各民族が参加して、「パンロン協定」に署名した。その際、各民族の疑念をなくすために、協定の中には一つの規定が盛り込まれていた。それは、ビルマ連邦成立十年後、連邦各州は彼らの意志によって、連邦への残留か、あるいは連邦からの離脱を選択できるという条項である。ビルマ独立後、中央政府は集権的な政策をとり、各州の地方意識を消滅させ、間断なく憲法で保証されている彼らの権利を剥奪し続けた。一九五七年、約束の十年がきた。すべて、明朝清朝によって冊封を受けていた世襲の酋長であったシャン州の藩王たちは、真っ先に離脱を要求してビルマ政府に拒絶された。

彼らは反乱の狼煙を挙げ、政府軍と警察を攻撃した。こうした山々が連綿と続く地域では、ビルマ政府は前を守れば後ろを失い、戦闘に疲れ果ててゆくのである。一九六二年、ネーウィン将軍が全権を掌握して国会を解散し、やがて民主的に選ばれた政府をひっくり返して社会主義軍事独裁への道を進むことになる。シャン州各勢力の内部分裂を誘い、漁夫の利を得る戦略を立て、自称超越的に聡明なネーウィン将軍は、シャン州人民に対して中央政府に対してのみ忠誠を誓いさえすれば、誰でも武装グループを組織してよいという方針を喧伝し、そうして、これらシャン州の藩王たちの勢力に対抗したのである。

こうした決定的に誤ちによって、今日まで続き、しかもさらに増えつづける災難が引き起こされた。なぜならば、それが、阿片の販売であれ阿片の護送であれ、麻薬を扱う実力者(資金は必須ではなく、命を賭けることが必須の輩)だけがそうした私兵を維持することができたからである。

羅星漢、中国孤軍に名付けられた彼の姓名は中国人のようだ。だが彼は中国人ではなく、ただ単に華人と呼ぶべきか。彼には中国の国籍がないので、せいぜい中華末裔のビルマ人というのが精一杯であろう。彼は曾祖父の代にビルマに帰化した。彼は中国漢王朝を開いた劉邦のように、聡明なる一匹狼であった。しかし、乱暴狼藉を働く以外、ろくに両親を慰めることもなかった彼は、とうとう父親に勘当されて家から叩き出されてしまったのであった。しかし、時勢は彼に有利に動いていた。たとえ、劉邦ほどの幸運に恵まれて漢王朝を開くとまでは言えないまでも、彼はこの台湾の数倍の面積を持つ僻地の劣悪な環境の中で、自身の麻薬王朝を立ち上げることができたのである。彼は当初、十数人の警備隊を組織して、麻薬の売人のために麻薬輸送隊の保護だけを行っていた。あるとき、まとまった量の「黒い貨物」がビルマ政府軍の手に落ちたことがある。ビルマ政府は彼に言った。「もしお前が政府に忠誠を誓うなら、この黒い貨物は返してやってもよい。それに、お前が自警団を合法的に名乗ることも許そう」だが、ビルマ政府は想像すらしなかったに違いない。彼は自らの生き残りに有利になるというだけの理由で、当然、忠誠を誓ったのである。

羅星漢のこうしたいきさつを見ていくと、麻薬は決して単純な法律上の案件ではなく、政治的な代物であることがわかる。ある政府、あるいは国家自身が、麻薬取引に誘い込むようなことを行っているのだから、法律的な立場に立って麻薬取り締りの問題を厳正に処理するのは非常に難しいということである。

羅星漢はさらに発展していく。続いて自らケシを栽培し始め、やがて、自らヘロインの精製にも乗り出した。そうしてまわりの同業者たちを平らげ、黄金の三角地帯に覇を唱えたのであった。彼の麻薬販売ルートはよく切れる刃物のようである。タチレクからタイ北部へ、最大の出荷地点はタイ国境の街メーサイであった。国際的な麻薬取り締り組織のアメリカ人スパイたちは大口を叩く。「もしおまえがタチレクでヘロインを買って、世界市場に持ち込もうとしても、その前に我々の網を掻い潜らなければならない」だが、この言葉は自分たちを過信した連中の単なる誇大妄想に過ぎない。羅星漢の麻薬王朝はそんな「網」にはまったくお構いなしであった。彼の出荷地点はタイビルマ国境線に沿って西へ南へと伸びていくからである。彼は、バンコクまで九百キロも離れていて、遠くて不便なメーサイを嫌ってさっさと見切りを付けている。彼は絶え間なく新しい出荷地点を開拓し続けていく。初めはメーホンソン、七○年代初頭にはさらにメソットに移動した。彼の最後の計画では、スリーパゴダパス、戦場にかける橋のクワイ河付近であった。すでにそこはバンコクから二百キロ程度の距離しかないのである。

「出師未捷身先死(※訳注、出撃しても勝利の前に死んでしまう)」というが、彼は死なないのである。だが、非常に有名になってしまった麻薬王で、上手に手を引くことができた者は少ない。第一に、麻薬を取り締まる側の国家が提示する巨額の懸賞金が彼らの意志を動揺させる。第二に、彼らはずっと山奥に潜んでいるために、閉鎖された環境が容易に自信過剰に結びつく。羅星漢はほどなくしてタイ政府によって逮捕されてしまい、世界を揺るがすニュースとなった。だが、最も世界を揺るがしたニュースは彼の逮捕ではなく、厳重に警備された監獄から彼が脱走に成功したことであった。当時の噂では、タイのある非常に権勢のある高級官僚は、彼が法廷に引っ張り出されて、あれこれ喋ってしまうことを恐れたという。しかし、この「阿片将軍」の幸運もここまでであった。どういうわけか、彼は自らマレーシアの視察に出かけて、そこであえなく逮捕されてしまうのである。それは一九七四年のことで、やがて、ビルマに戻された。彼は今もビルマの監獄の中で晩年を過ごしている(※訳注、現在はすでに釈放されて実業家として活動している)。

羅星漢の一件以来、麻薬王朝は瓦解したかのようである。そして、シャン州タンヤンロイモー部落の地頭、クンサーが代わって事態を収拾し、声威を轟かすことになるのである。




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