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【番外編】北タイ・メーサロン 墓誌に刻まれた物語(9)

B氏一家、中国を脱出

 共産中国成立直前の中国では、共産党側はまるでオセロや囲碁のように国民党軍部隊を帰順させていた。まさしく戦わずして勝つという戦略を地でいくような手段であった。個人というよりも、国共の風向きを見て身の振りを決める指揮官の判断次第で、部隊がまるごと共産党側に寝返るのである。

 滇軍から何度も改編されていた、雲南に駐屯する国民党軍部隊についても同様のことがいえた。当時はすでに共産中国が北京で成立していたし、昆明に駐屯していた国民党第八軍、第二十六軍に対しても、部隊単位で寝返らせるための熾烈な工作が錯綜していたのであった。北にあった人民解放軍部隊は、全土を制圧すべく徐々に南下を開始して雲南省へと迫っていた。

 当時の雲南省主席廬漢はすでに共産党への内応を約していて、万単位の国民党軍部隊の帰順は大きな手土産となるであろうから、これは廬漢の工作の主眼であったと思われる。雲南省では、昆明の失陥と、それに続く元江戦役での国民党軍部隊の大敗北を最後に、徐々に国民党軍が追い込まれていく展開となっていた。

 元江で大敗を喫した国民党軍は、次々に増強される共産党軍に追い立てられるように、だが時に反撃を加えて血路を斬り開き、また時に敗残兵を収容しながら雲南省内を敗走していた。

 このとき、B氏はどこにいたのであろうか。墓誌を読んでみる。

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 当家がビルマに逃げたとき、李彌将軍が反共救国軍を成立させたため、再度軍役に服することになり、その麾下に入ったのであった。
 その間、亡母が一人で家庭を守り、苦労を乗り越えてなんとか生き残るしかなかったのであった。亡父は民国四十五年に北ビルマに戻ることを約し、数年後に一家は全員揃うことができた。
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 雲南省とビルマの国境は、ビルマ側から見ると、カチン州とシャン州にある。前出のA氏は雲南省の南部にいたため、南下してそぐそばの国境を越えてシャン州へと逃げた。B氏の場合、この墓誌から読み取ると、「北ビルマに戻ることを約し」とある。北ビルマとはつまりカチン州のことだ。さらにカチン州へ一家で逃げたということは、もとはその中国側、雲南省西部の騰衝、保山あたりにいたものと思われる。

 共産中国以前のことになるが、このあたりはもともと国民党の影響が強い地域であった。英領インドからビルマを抜けて雲南省へ到る援蒋ルートは、日中戦争中は重慶政府にとっての大切な補給路であり、重慶爆撃によって戦意を喪失させることで終息を急いだ日本にとって、日本軍のビルマ独立工作とそれに続くビルマへの進撃には、この重慶政府の補給路を遮断するという重要な目的があった。

 雲南省西部はビルマ側から進撃してきた日本軍と国民党軍が激戦を交わした地域である。重慶政府の裏口を防衛し、ビルマ北部から日本軍を追い出すことで、補給路を確保したい連合国側の戦略に沿って、中国遠征軍が組織され、その出撃拠点となったのもこの地域であった。ちなみに、有名な加藤隼戦闘隊が、英空軍や、当時昆明に基地を置いた義勇兵パイロットによる航空部隊であるフライングタイガース(中国名は飛虎隊)と死闘を繰り返したのもこの地域での制空権をめぐる戦闘においてである。

 メーサロンにはごく少数だが、こうした雲南軍部隊の改編・変遷と共に所属部隊を変え、やがては反共部隊で戦い、部隊の台湾撤退後もこの地に残留してさらに戦うというように、人生のほとんどを費やして、延々と戦い抜いてきた老人がご存命である。地方軍閥と戦い、日本軍と戦い、人民解放軍と戦い、ビルマ政府軍と戦い、シャン州のその他武装勢力と戦い、というように、彼らの人生はまさしく戦の一字であったのだ。

 曾焔の「人参果」に、父親である国民党軍人が登場し、その戦歴を見て愕然とするシーンがある。
シャン州をさまよった女流作家 曾焔の伝奇小説 人参果 (3)

 やがて日本軍は徐々に押し出されてビルマ北部から撤退してゆくが、その後に竣工したスティルウェルロード(スティルウェルは中国遠征軍を指揮するために派遣された米軍将校ジョセフ・スティルウェルの名字)とも呼ばれたリド公路は、インドからカチン州ミッチーナーを抜け、その中国側の終点は雲南省騰衝であった。そして、中国が共産化された際に雲南省西部からビルマに逃げるという場合、多くの人々がこの逆の道のりを通った。それは、以後も連綿と続く中国からの逃避ルート(カチン州は中国系人の多い土地であり、ひとまず中国を抜け出して、ビルマに落ち着いてから様子を見るという人が多かった)の一つでもある。

 そしてB氏は避難先のカチン州から、一人はるばるシャン州へと移動して、元国民党第八軍の軍団長であった李彌将軍が設立した「反共救国軍」に身を投じた。そしてその間、カチン州に残されたとおぼしきB氏の家族は、彼の妻が一人面倒を見ることになったというのが、墓誌が語る情況だ。それでは、民国四十五年(西暦一九五六年)に戻ってくるとB氏が約し、一家を置いてまで参加した反共救国軍とはいったいどのような組織なのか。


【番外編】北タイ・メーサロン 墓誌に刻まれた物語(10)へ





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