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【番外編2】北タイ・メーサロン 墓誌に刻まれた物語(8)


雲南講武堂と雲南出身の精強部隊「滇軍」

 B氏が身を投じた国民軍の話をする前に、雲南生まれの、とある精強な部隊の話から語り起こす必要がある。まずはこの地にどうして精強な部隊が生まれたのか、そのいきさつから説き起こしてみたい。滇とは、ディェンと読み、雲南省の別名で、滇軍とは雲南の軍隊という意味である。地方軍閥の影響力が強い中国には、東北の張作霖軍や山西の閻錫山軍のように、正統な国民党軍とは異なる、こうした半独立の指揮系統を持つ部隊が多数存在し、彼らは時に応じて軍閥化したり政府軍化したりした。

 雲南省の省都昆明市の中心部に、翠湖公園という市民の憩いの場がある。このあたりは昆明の古い頃からある区域で、古い建物が多く残っていて、その中に、雲南講武堂という歴史文物に指定された古い建物がある。練兵場を取り囲むように建てられた、その黄色く塗られた建物は翠湖の西側にある。この雲南講武堂は一九〇九年に開校し、かつては、一九〇六年に開校した天津の北洋講武堂、一九〇八年に開校した奉天の東北講武堂とならび、中国三大講武堂の一つとされる伝統ある軍学校だ。現在は歴史博物館のようになっている。>>>雲南陸軍講武堂

 日清戦争敗北の教訓から軍の近代化を急いだ清朝は、雲南など南の方にあっては、当時インドシナから北上して利権を獲得すべくさまざまな援助を与えていたフランスの支援を受けていた。たとえば、ハノイから昆明に延びる鉄道や、錫鉱山の開発、そしてこの雲南講武堂である。だが、その教程は日本の士官学校を範とし、歩兵、騎兵、砲兵、工兵の四つの兵科が設けられ、さらに甲乙丙の三つの学級に分けられた。また、当時の風潮を反映してか、数多くの日本軍士官学校卒業者がその教官の任に付いたといわれる。早くから開明的な教官と学生が多く、辛亥革命期には中級下級士官、約六百名あまりを輩出したとされる。

 やがて袁世凱が国民政府の大統領に就任した。袁世凱が南京の国民政府をないがしろにして、独裁を強めていくという当時の政治的な潮流に不満を持つ多くの若者たちがここで学んでいた。滇軍はこの雲南講武堂の人材と地元の実力者たちの支援を背景に、そして、当時最新のフランス式兵器を装備した軍隊である。その後、蔡鍔将軍が滇軍を掌握して雲南省を半独立状態とした。

 滇軍はこうした幾多の変遷を経て、時として雲南省の地方部隊として西南部一帯を制圧したり、時として中原や華北まで遠征して日本軍とも戦った。この滇軍はやがて中華民国軍の一部隊として、一時は十万名ともいわれる大きな勢力を持ち、中国各地を転戦した。

 墓誌の記述から逆算して推理するに、一途な若者であったB氏が身を投じた中国国民軍とは、このなかの一部隊を指しているものと思われる。墓誌にいう。「亡父が長く外地で軍役に服していた関係で、亡母J氏とは晩婚……」つまり、同部隊が外地、即ち中原や華北などに長い間遠征していたため、B氏は晩婚なのである。

 B氏はそのまま「中国国民軍の軍旅」にあって、一途で血気盛んな青年時代から、大隊を率いる少佐に昇進するまで過ごした長い軍役を経て退役。退役後は雲南省の一地方の県知事に納まる。その後中国は国共内戦に突入し、その影響は、退役して結婚し、家庭を持ち、すでに県知事を務めていたB氏の身の上に、否が応にも降りかかってくるのであった。


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