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【番外編2】北タイ・メーサロン 墓誌に刻まれた物語(6)


一家は新天地メーサロンを目指す

 さらなる南下が決断された。行き先は北タイである。ケントゥンからの直線距離はおよそ二五〇キロメートルほどであろうか。山道なので実際の行程は定かではないし、一家を挙げて南下という記述から、家族全員、家財一式の大移動であったものとも想像される。

 この頃のメーサロンは、国民党が定着し始めてからすでに何年か経っている。A氏の一家が逃避先として、中国人がまとまって暮らすメーサロンを目指すのは、当然といえば当然であった。さらに、この地にて、「第六組の組長に任じられた」とあるが、おそらく自警団的な組織の編成ではないかと思われ、当時、メーサロンに住む人たちが、自分たちの身を守るために、地域の治安問題とどのように向き合っていたかが窺える。

 そのころ、このあたりの治安はまだ安定していなかった。ビルマ独立前の地図を見ると、シャン州の一部はタイ領として区割りされており、また、北タイにもこうした藩王国的な地域がその直前まで存在していたぐらいで、その国境線は意識の上でも曖昧であったと思われる。また、タイ政府には国境線を守り抜くほどの軍事的実力が備わっておらず、人が疏らに住むだけの統治地域の行政にも十分に手が回らない。国境地帯は山深く、ジャングルには密林が生い茂る。反政府勢力と国軍の内戦が続くビルマ側の情況と合わせて考えれば、このあたりは街を一歩出れば、タイの警察力が及びにくい一種の無法地帯のような情況であった。
柏楊【金三角 邊区 荒城】二十六 孤軍の悪運
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 やがてA氏は地元の匪賊から受けた襲撃によって命を落とすことになった。だが、なんとか子供たちを成人させるだけの道はすでに付けていたようだ。一家はメーサロンを終の棲家として、現在に至り、その子孫たちはみな成人して、A氏の墓園を立派に整備する。合計六男四女という大所帯である。今や彼らはみな、タイ国籍の(雲南系)中国人となったのであった。

 墓誌の最後の部分を読んでみよう。

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“氏は当家のたった一人の跡継ぎであったため、故郷の習俗に則り、M氏からも妻を娶った。二男二女を設け、さらにタイに来てからは四男二女を設けたが、現在ではみな成人している。氏の一生は、侠気と仁義に富み、貧富の分け隔てなく多くの人と心を込めて交遊してきた。そのため、氏はタイ・ビルマ一帯に幅広い付き合いがある。そして、一旦その人が苦境にあることを知るや、付き合いの親疎などには拘らず、すぐに救いの手を差し伸べたのだった。氏のそうした高潔な義挙の数々は人々によって言い広められ、また感謝されてもいる。そしてこの度、氏の墓園を修復するにあたり、氏の業績をここに刻み、後世の者に知らしめんとするものである。”《墓誌の第三段落部分》
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 自身も雲南人であり、ケントゥンで商売をし、北タイとの間を何度も往復したA氏。墓誌によれば、その交際範囲もそうした地域一帯に広がっている。その後を継いだ子供たちは、北タイにやってきてから作り上げた台湾との人脈でビジネスをしているのだろうか。それとも雲南人である自らのルーツを生かして大陸とビジネスをしているのだろうか。それとも普通のタイ人として暮らしているのであろうか。

 もしかしたらタイ人としてビルマ国内のネットワークを生かしたビジネスに従事しているかもしれない。北タイの雲南系中国人からは、親戚がラングーンにいるとか、マンダレーにいるとか、台湾にいるとか、そうした話を当たり前のように聞くし、現在ではそうした親戚たちがネットで気軽に挨拶を交わす時代となっている。また、全員が中国語を話すとは限らず、話せても読み書きができるとは限らない。だが彼らはそれでも親戚なのだ。一度失われて、あらためて学びなおした世代もある。彼らを取り囲む時代は、確実に移り変わっているのだ。

 現在でも、メーサロンにはビルマ側からやってきた中国系人、さらには大陸からやってきた中国系人すら数多く存在する。彼らの法的地位は、山岳民族のように、国境を越えてタイ領内に流入してきて一時的に居住している居留民ともいうべきもので、タイの国籍取得にはまだその先の手続きが必要だ。指定された場所で暮らしている分には特に大きな問題はないが、権利面での待遇に差別があり、たとえば、国内の移動制限などがある。

 北タイを移動中に見かけるよく光景だが、国道沿いの検問所などで我々がパスポートの提示を求められるとき、乗合トラックに同乗している人が丁寧に折りたたんだ書類をビニール袋に入れて持ち歩いていて、警官がその書類を確認していることがある。それは彼らの移動制限と関係がある。

 北タイへの中国系人の流入は、法的概念上の国境線の向こう側が安定しない限り、また、貧しい状態が続く限り、相対的にいえばタイが彼の地よりも発展し続ける限り、今後も終わることはないのである。

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