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【番外編2】北タイ・メーサロン 墓誌に刻まれた物語(4)


故郷を離れ、商売で糊口を凌ぐ ~馬幇 雲南と東南アジアを繋ぐ隊商たち

 さらにA氏の人生の歩みを追っていこう。彼は妻を娶って腰を落ち着けたケントゥンで一所懸命に働き、第三の人生をスタートさせる。ケントゥンと北タイとの間を往復するビジネスとは、いわゆる担ぎ屋である。

 担ぎ屋というとなにやら悪いイメージが漂うが、このあたりでは何百年も昔から普通に行われてきた正統派のビジネスだ。このインドシナ北部から遠くインド東部やチベットまで延びる陸の交易ルートで活躍していた商人たちが、馬幇(マーバン)である。

 馬幇とは簡単に言うと、主に雲南系の中国人によって組織される荷駄隊である。直訳すると「馬を引く人々」「馬喰」といったニュアンスである。ただ、上り下りが激しい山道を通るため、実際の荷役に使用されるのは、ほとんどの場合、足首が細い馬ではなくて、しっかりとした短足で足の太い騾馬である。

 馬幇の交易とはどのようなものか。例えば、茶の生産が盛んな雲南からチベットへ沱茶(茶葉を型に入れて蒸気で圧縮して固めたもの)を持って行って売る。その茶はチベット式のバター茶に欠かせないものである。また、チベット式のバター茶に欠かせないものにはバターと塩があるが、帰りはチベット産の岩塩を大量に積んで持って帰って来て売る。これはあくまで例に過ぎないので、実際にこのような交易がなされていたかは定かではないが、要は地域の物資を補完し合うようにマッチングさせるわけだ。
克保【異域】(4)に馬幇に関する記述がある

 実際に取引される商品はもっと多様であろうし、マッチングのパターンは、交易のハブとなる「市」が介在していればもっと複雑になると思われるが、簡単に言えば、このような陸上の交易形態で営まれる商売である。

 彼らの営みから見れば、西洋型の国境という概念は元々稀薄であって、あのあたりは○○国、あの辺に行くとこんなものが安く買える、または高く売れる、といった概念が支配的であったろう。国よりも市場がある場所といった意識が強かったはずだ。従って、彼らの活動範囲である交易ルートの上を「後から引かれた国境線が横切った」のは英国のアジア進出の後、清朝との間に西洋式の国境線を引いた頃である。

 当然、こうした交易ルートは北タイまで延びている。シャン州は山がちであり、しかも海がないから交易は陸路に頼る他はない。その意味で馬幇の通商ルートこそ、シャン州を夾んで中国と東南アジアを結ぶ陸のつながりそのものなのだ。さまざまな場所から延びてきた交易路が集まる大きな盆地の都市、シャン州ケントゥン(チャイントォン)はその中でもかなり大きな都市の一つである。

 昔の英語の記事などでは、「黄金の三角地帯の首都」などとという、大げさな呼び名が付けられていたが、高原の盆地にある風光明媚で快適な空気が漂い、とても居心地のよい地方都市である。ちなみに、現在でもケントゥンには定期的に市が立っており、どこからどういういきさつで運び込まれたのか、いちいち想像するのが面倒なほど、ありとあらゆる種類の産物が集まる。驢馬がトラックに変わっても、経済活動の主役はやはり人間と市場なのである。

 ケントゥンにはケントゥン周辺の産物の他、さらに北の雲南省から持ち込まれた物資も集積していたはずだ。そうした商品を騾馬に載せて北タイへ持ってきて売る。また、帰りには、北タイの産物を積んで帰り、ケントゥンで売る。その一部はさらに、A氏の故郷である雲南省まで運ばれる。こうした営みを想像すれば、おそらく彼のこの第三の人生、その日常がどのようなものであったかも想像できる。

 もしかしたら、A氏の真面目な働きぶりを認めて結婚前に資金援助をしてくれたという主人は、北タイや雲南へ積んでいく産物の手配をしたり、逆に、北タイから持ち込まれた産物を引き受けて売り捌いている大物の商人だったのかもしれない。その主人の元でコツコツと働いて経験を積みつつ元手を貯め、こうした商売に打って出たとすれば、それはそれで当然の成り行きとも考えられる。

中国語作品で読む 黄金の三角地帯とタイ北部 メーサロンの墓誌sMaeSarongMuzhi001.jpg

墓誌の記述を読んでみよう。

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“結婚後はケントゥンと北タイとの間を往復しながら商いを営み、苦労して経営を続け
ながらも数年のうちに生活は安定してきていた。だが、その後に起こったビルマ国内の
内乱を避けるため、一家を挙げてさらに南へ移動することになった。”
《墓誌の第二段落部分》

================================================================================

 しかし、その後に起こったビルマの内乱によって、やっと安定し始めたその生活も手放さざるを得なくなってしまった。彼の生活を奪い、彼をビルマからタイに追いやった内乱とは、いったいどのようなものだったのだろうか。

【番外編2】北タイ・メーサロン 墓誌に刻まれた物語(5)へ





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