【番外編2】北タイ・メーサロン 墓誌に刻まれた物語(2)

 
 祖国を離れた彼らは、ある者は反攻部隊に身を投じて銃を取って戦い、またある者は国境地帯に網の目のように広がる通商路を驢馬で行き来する商いで命を繋いだりした。その後、国民党軍第五軍の基地がこの地に置かれることとなってから、メーサロンへの中国系人の本格的な流入が始まったのであった。
柏楊【金三角 邊区 荒城】二十五、メサロン(メーサロン・美斯樂)に、第五軍がメーサロンに駐屯したいきさつと、八十年代のメーサロンの描写がある。

 彼らの多くは歴史上は無名の人々に過ぎない。だが、このように墓誌に刻み込まれた「個人史」から浮かび上がるイメージは、政変や戦乱などとは無縁に生きてきた我々の人生とは大きく異なる。また、メーサロン、国民党、中国人といったキーワードから、いままでなんとなく思い描かれていた「国民党が逃げてきて、この地に定住した」という大雑把な感覚とはだいぶ異なったものでもある。

 人々を押し出したその背後にあるもの(それが現在大陸に住む人々が抱く不満とも、どことなく重なっているのが気になるが)を理解したり、たどり着くまでの道のりを知ることで、我々はこのメーサロンの成り立ちを側面から窺い知ることができる。それは大まかに言って、北タイに多く暮らす他の雲南系中国人にも多くの面で当てはまるものだ。そしてなによりも、それが現実に存在した人々の身の上に起きたことであるという紛れもない現実は、その想像に力強い輪郭を与えるに違いない。


中国語作品で読む 黄金の三角地帯とタイ北部 メーサロン墓所MaeSarongPhoto007.jpg
メーサロンのある墓の正面写真

 今回使用した墓誌はどれもメーサロンにて撮影したものだが、前述のようにメーサロン以外にも、北タイに多くの雲南系中国人が暮らす理由を知る上でも参考になる(さらに、ビルマのシャン州やカチン州にも、このような背景を持つ中国系人が数多く暮らしている)。また、その時代背景に思いを巡らせることで、その壮絶な生き様や定着への苦労を垣間見ることもできよう。

 今回は、そうした墓誌のいくつかを差し支えなさそうな範囲で取り上げ、その時代背景を資料から調べて紹介することにしたい。本ブログの、克保「異域」および柏楊「金三角 邊区 荒城」などに関連する記事がある場合は、なるべくそちらも参照できるようにした。

(※なお、墓地及び墓誌は、特に囲いなどもなくそこに存在している状態で、誰でも立ち入って見ることができるため、これらは事実上、公開されているのと同様である。とはいえ、個人名を特定できるような書き方はあまり好ましくないとも考えている。そのため、画像は個人名など一部に加工を加え、文章等は一部表現を改めてある。)

【番外編2】北タイ・メーサロン 墓誌に刻まれた物語(3)へ





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