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克保(柏楊) 異域 (12)

 
 その日の夜、杜顯信将軍は山の上の塹壕で軍事会議を開き、みなに江口奪還の必要を訴え、明日払暁の反撃を命じた。

 反共大学機関砲大隊長の|陳義《チェンイー》が、反共大学の学生を率いて第一波攻撃を担当。保安第一師団第一大隊長の高林が保安第一師団を率いて第二波攻撃を担当、そして、警備大隊長鄒浩修が主力を率いて第三波攻撃を担当する。

 会議は散会して各部隊は部署に付いた。月は出ておらず風が強い。陳義は堡塁を出て草に隠れて匍匐前進し、なるべく敵に接近しておくように命じた。残る二波の仲間たちは塹壕で休息を取っている。

 その夜は私もよく眠れなかった。銃眼に眼を近づけて山々を眺めると、古い中国の山水画のように清爽とした光景が広がっていた。サルウィン河が四十里の外れに流れている。

 ビルマ軍の陣地は静寂無声といっていい。これは大戦が始まる前の晩である。私は密かに杜顯信将軍のところを訪ねると、かれは盛り土に寄りかかって眠っていた。

 この東北出身の年老いた砲兵将校はこの戦場の主宰者である。彼は自ら各砲の攻撃目標を測定している。なぜなら、砲兵の役割は第一波攻撃が始まる直前に、わずか数秒のあいだに敵が築いた前線の構築物を一気に破壊することだったからだ。

 民国四十二年三月二十一日払暁。濃霧。サルウィン河は全身に熱を帯びた龍のように轟轟と流れている。私と杜顯信将軍は肩を並べて山の上に立っていた。七時十二分、なぜか私ははっきりと覚えているが、そのとき急に、強烈な陽光が雲の切れ目から射しこみ、峰々を照らし出し、そうかと思うと、突然、濃霧が消え散った。

 双方の陣地には何の動きもないようだ。杜将軍は詳しく観察してから、彼の後ろにいる号令の兵に手を振って合図した。

 突撃の号令が起こった。二門の無反動砲が、尾根の上のビルマ軍指揮所に照準を合わせてあった。この二門の無反動砲はビルマ軍からの鹵獲品である。これは、ライフル銃のように砲弾を水平に射撃できる。杜将軍の運用下で、二匹の火龍のようにわずかな時間のあいだに敵の拠点を次々に壊滅させた。

 突撃の号令と砲声は同時に巻き起こった。第一波攻撃が開始される。反共大学の学生たちが掩体から跳び出した。陳義大隊長が先を走り、ビルマ軍の第一線陣地にかじりついた。ビルマ軍は機関銃と歩兵銃を撃ちまくり、あたり一面は銃弾の海となる。

 学生たちは次々に斃れてゆく。半分以上はまともな武器もない。訓練用の竹槍しかなく、自ら綯った縄で敵軍を縛り上げられると本当に信じている彼らを、天は憐れんでくれるだろうか。私は望遠鏡を握り締めていた。声を張り上げ、竹槍を持ち、同級生の死体を踏み越えて、体ごと敵の鉄条網にぶつかっていく彼らの様子を見ていた。

 第二波攻撃は、第一波攻撃で敵の鉄条網に切れ目を入れたあとに始まった。|高林《ガオリン》大隊長は、もともと安徽省壽県出身の英雄であるが、この一戦で戦死した。彼がビルマ軍の第二線陣地に躍り込むと、山の凹みに埋め込まれるように設置されたトーチカから反撃があった。高林大隊長は自らよじ登っていき、そのトーチカの銃眼から手榴弾を投げ込もうとしたのだが、その瞬間、心臓を撃ち抜かれて倒れこんだ。

 彼の遺体が猛撤に運ばれてきたときに、甫景雲師団長は、二枚の二チャット硬貨を彼の口に入れてやった。かれの歯はしっかりと閉じられたままだったが、両眼は埋葬するその日まで、きっと見開いたまま、閉じることはなかった。彼はあの時四十幾歳、未婚。だが、彼の兄が台湾にいると聞き、私はかつて人に頼んで探してもらったことがあるのだが、長い間何の連絡もない。おそらく彼も、すでにこの世にいないのではないだろうか。

   十二

 第三波攻撃は正午をもって開始された。鄒浩修大隊長と劉占副大隊長が率いている。第一波と第二波の各部隊がこじ開けた陣地を通り抜け、ビルマ軍の第二線の主陣地を攻撃した。太陽が高く照らし、山は震えた。敵の巨砲はすでに沈黙しているようだ。

 三十分後、ビルマ軍は江口に向かって撤退を開始した。蟻のように続々とゴムボートや筏に乗り込んでおり、大小の武器は陣地に遺棄されていた。彼らが今回の攻撃を発動したときのような素早さでサルウィン河を渡り、ラングーンに向けて逃走していく。江口では、劉占副大隊長が、例の一○五ミリ砲を鹵獲し、こんどは、壊走中の元の主に向けて砲撃を加えている。

 拉牛山の戦役は午後一時ごろには終息した。しかし、我々の場合、一つの勝利があっても、その先は小説のような具合にはいかない。すぐさま休息、あるいは、英雄のごとき凱旋式で歓呼の声に迎えられる、こうしたことは一切ないのである。

 なにせ、李國輝将軍の孤軍がすでに二十日以上も猛布で包囲されたままなのである。雲南方面で糧食を調達していた|陳昌盛《チェンチャンチェン》参謀主任と|陳傑《チェンジエ》大隊長は、かの地を出発すると、部隊を率いて夜間行軍で急いで戻った。しかし、ビルマ軍の主力は猛布の攻略に振り向けられていて、明らかに猛撤は目標ではなかった。彼らが猛撤を攻撃占領することには大きな意味がないとすれば、それは、我々がいつでも第二の猛撤を物色できるからだ。

 彼らの作戦の目的は、主として李國輝将軍が率いる我々の野戦軍主力を一挙に消滅させることにあったのである。

 拉牛山戦役が終息したその日の晩、我々は猛布で包囲されている部隊に増援を送った。拉牛山から猛布まで、通常五日から六日はかかる行程なのだが、我々は急いで救援に向かうため、江口の戦場整理を放り出して、再度密林に入り込み、猛布へ挺進した。

 天に突き抜けるような巨木、荒涼とした荒れ山には、途中、民家もない。腹が減ればむすび飯を齧り、喉が乾けば岩の間から湧き出る水を飲んだ。夕方過ぎにわずか二、三時間の休息を取り、結局三日半の日数でこの五、六日の行程を駆け抜けたのであった。

 部隊を谷に残し、私と鄒浩修大隊長は、山の小路から猛布へ入って行った。どうしてビルマ軍がこんなに簡単に我々を通してくれたのかいまだに謎である。もしかしたら、中華の天意といったもののおかげだろうか。ビルマ軍が包囲するときは、いつも、包囲網が半分以上だけで、完全に包囲していないことが多い。おそらくこのことは、山の地形と関係があるのだろう。実際、この地は江口のように完璧に包囲することはできない。

 いずれにしても、我々はビルマ軍の空隙を突いて、村の近くにある防空壕にたどり着き、堪え難いほどに疲れ切った李國輝将軍に出会えたのである。

「おお、援軍を待ち焦がれていたぞ」

彼が言った。

「我々の部隊をさっそく陣地のなかに入れましょうか?」

「いや。いっそのこと敵の出端を挫く方がいい。だが、我々には兵力が不足している」

彼は立ち上がった。

「そこで、私が自ら君たちを指揮する。このまま迂回して、ビルマ野郎どものケツをかき回すことにする」

 李國輝将軍は配置を終えると、我々を率いて西北の方向にある|莊金《チュァンジン》へ向かって出発した。このあたりの山々の地勢はさらに複雑で、また、さらに切り立っている。我々は凹みを警戒しながら行軍した。夕方過ぎにはビルマ軍の背後に回り込み、山々に兵力を伏せると、燈火が煌々と輝くビルマ軍の第一線の兵站が見える。

 ビルマ軍は作戦時に彼らの家族を引き連れてくる。女、子供が行ったり来たりしている。まるで大平の世の中のような光景である。ビルマ軍が知っているかどうか、我々にはわからないが、陣中に婦女がいると、絶対に士気は上がらない。






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