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克保(柏楊) 異域 (10)

 
 サルウィン河での戦闘の三カ月前、ついに私たち家族は、医者に診てもらうためにバンコクへ向かった。私と妻、妻は息子の手を引き、私は娘を抱きかかえ、メーサイから長距離バスに乗ってチェンマイ(タイ北部の大都市)へ行き、そこで汽車に乗り換えてバンコクへ向かった。

 私たちが乗車したのは一等車であったが、これは何も私たちにお金があったことを意味しない。むしろ、一等車の乗客を粗略に扱わないことが重要なのであった。私たちは中国人だが、旅券をもっていない。したがって、一等車に紛れている方が安全に移動できるというわけだ。

 私たちは列車の軽い振動に揺られながら、目の前に広がる青々とした平原に目を瞠った。見渡す限りすべて水田であった。風が吹けば果てることのない波浪のように稲穂が揺れて、それは鉄道に向かって湧き上がってくるようであった。こうした風景は、千里の彼方にある、夢に見た故郷へ私を連れ戻したようであった。妻は、体全体がすっぽり飲み込まれるような羽毛のソファーに腰掛けて、あかぎれだらけで一等車に不釣り合いな手をさすっていた。

「あの頃に戻ったみたいだわ」

妻は感動を漏らした。

「でも戻れないのよね。ずっと荒地を逃げ回っているうちに、自分が誰なのかもわからなくなっちゃったわ」

 息子は彼が目にするもの一つ一つに興奮していた。前進する列車、唸る機関車、ニスが塗られた床、さらに、なけなしの金をはたいて買った私たちの衣服や、太陽が高く照りつけながらもわずかに涼しい客車内の冷房など。彼はひっきりなしに母親にいろいろなことを聞いていた。そして娘だけは何も言わずに微笑んでいた。だが、私はこの時とても気持ちがよかった。もうすぐ娘を医者に診せてやることができるからだった。

「子供の病気がよくなったら…」

妻は恐る恐る切り出した。

「私たちもバンコクに住みたいわ」

私はしばらくどう答えていいかわからなかった。すると妻が厳しい口調で続けた。

「だって、あの人たちの家族もみんなバンコクにお住まいなのでしょう」

 しかし、あとになって、彼女は自分からメーサイに帰りたいと言い出した。バンコクはいいところである。高級幹部の家族たちはみなバンコクに住んでいた。だが私はそこで、何となく感じていたものの、いままでは実際に自分の目で確かめようがなかった、ある不吉な陰影を見てしまうのである。

   五

 バンコク。世界中の他の大都市と同じように、賑やかで、喧騒に溢れ、人の波は活気にあふれている。至る所に自動車と高層ビルが溢れ、私と妻は眩暈を覚えてしまう。

 我々の補給物資、つまり、国防部が補給する、実際には我々の実数よりも多い給与と弾薬等、毎月七万五千米ドル相当の現金や物資の供給は、すべてバンコクを経由する。そして、共産党の諜報員も、バンコクを重要な兵站要地であると睨んでいた。さらにこのことは、このタイの首都で、畸形ともいうべき繁栄を見せていたのである。

 雲南総司令部バンコク事務所の将校たちは、一攫千金、自然と何ら吝嗇することのない時代の寵児となっていた。一方で、私と妻の宿泊先は、彼らと比べて明かに見劣りする、|客昇《クーシェン》という名の、車引きの車夫や象使いたちが泊まる、華僑経営の三等旅館であった。到着二日目、総司令部事務所に到着報告を行い、その日の午後、娘を医者に連れて行った。

 私と李國輝将軍夫妻はこの日の一週間後に偶然出会った。今思えばこの一度の出会いが、まさしく私が何となく感じていた陰影が現実になってしまう出来事なのだった。

 李國輝将軍は五ヶ月前に、彼の妻、唐輿鳳女史をバンコクまで送り、そのまま訓練を受けに台湾へ行った。彼が台湾へ出かけたとき、彼の家族はまだ整理がついておらず、彼の訓練終了を待っていたのだが、それがちょうど私たち夫婦が偶然出会ったその日なのであった。彼は、自分の妻と、まだおんぶの息子が、二つの大きなビルの間に、まるでゴミを積み上げたように建っている掘っ立て小屋に住んでいることを初めて知った。

 その、新しく建てた二棟のビル、左側のビルの主人は、李彌将軍の妻の弟である|龍昌華《ロンチェンホァ》、右側が李彌将軍の妻の姉の夫、|熊伯谷《ションバイグー》であった。李彌将軍夫妻は、義理の弟である龍昌華の名義で所有している豪華なビルに住んでいる。

 唐輿鳳女史は、恨みのこもった眼で、夫をみつめ、彼の質問に一句一句答えている。

「李彌将軍は君ら親子を見にきたか?」

「ないわよ」

「彼らは君らを招いたか?」

「ないわよ」

「誰かが君らを訪ねてきたか?」

「ないわよ」

「君らはちゃんとお金を持っているのか?」

「ないわよ」

涙の筋が二つ、彼女の頬を流れ落ちた。

 実際、彼女はバンコクでずっと孤独な日々を過ごしていたのであった。彼女も私たちと同じく、バンコクの繁華な雰囲気に圧倒されて眩暈がしていたようだ。

 掘っ立て小屋とて、住めないことはない。だが、両脇の巨大なビルは金色に輝き、男性たちの身なりは瀟洒であり、女性達も華麗に着こなしている。総司令部事務所員は、彼女が右も左もわからないからと、彼女を軽蔑したので、彼女は深く傷ついた。

 彼女が夫に対して話し始めると、もう止まるところを知らない。李彌将軍夫人が彼女と出会っても、彼女に声も掛けないとか、彼女が湿気の少ない場所に引っ越したいからと事務所員に掛け合っても、金がないの一点張りだったとか、金を借りにいっても、再三に渡ってお願いしてやっと一部分だけを支給した等々、等々。私は側で漏れなく聞いていて、李國輝将軍の顔の表情に眼を凝らしていた。

 その日の晩、みなの心はとても憂鬱であった。私は次の日もまたここにやってきた。夫妻はその掘っ立て小屋の庭でベンチに腰掛けている。李國輝将軍は上半身をはだけてバナナの葉で作った団扇を扇ぎ、その風は鼻を突くような酒の臭いが運んでくる。

「克保さん」

彼は言った。

「あの大官と貴婦人たちが……、ロイヤルホテルで私をお迎えくださって、一席設けていただけるそうだ。だが私は行かないことに決めた」

「それはまずいです。行くべきでしょう」

「私は行かない」

彼はせせら笑っていた。

「自分の酒だってあるしな」。

そして、彼は立ち上がってバナナの団扇で左右を差しながら、凄みのある声で言った。「克保さん、見てみろ。この二棟のビル。これは我々孤軍の血と米ドルで建てたんだ」

「黙って。死にたいの!」

彼の妻が叫んだ。

「私は聞きたい。あの米ドル、それに、滄源に投下される装備はどこへ行ったんだ!」

 私は思わず駆け寄って李國輝将軍の口を押さえた。彼の奥さんは、しくしくと泣きながら、蒸籠のように蒸し暑い掘っ立て小屋へ戻っていった。

 私は街に出て五バーツ分の氷を買い求めてきて、彼の頭に押し付けた。

 この家を失礼するとき、私があまり親しくしているというわけでもない事務所員たちが歩み寄ってきて、みなさんずいぶんお待ちですよと告げた。李國輝将軍を招かないというわけにはいかなかったようであるが、結果的に、私が数合わせのために連れていかれた。

 そこでは、白衣のボーイが恭しく迎える、鏡のようによく磨かれた床のホールに、数十卓の宴席が広がっていた。私はこの場で唯一の、辺境で戦っている将校なのであったが、光栄にも皆様とご一緒できたということのようである。華僑とタイの女子が、尊敬の眼差しを湛えてみなに酒を注いで回っていた。

 そのあと、続いて舞踏会があったが、私は一人壁の隅に寄りかかって氷水を啜っていた。

「壮士軍前半死生、美人帳下猶歌舞(訳注、兵士達は戦闘前に半ば死を覚悟している、美女たちは帳のなかで、なおも歌い踊って歓待した。高適、燕歌行の一節)」。

 私は、他人が見ていない隙に、ホールを出た。ドアのところで、自動ドアが跳ねて私に当たってしまい、私は倒れたが、素早くその場を逃げ去った。メナム河の土手に登り、一面に散らばる無数の艀を眺めて深く息をした。私はこの世界に適応できないことに気づいたのであった。

 旅社に戻ると、妻はすでに子供たちを蚊帳の中で寝かしつけたあとだった。私たちは黙って向き合っていた。そしてそのまましばらく経ち、彼女は突然口を開いたのであった。

「私たち、やっぱりメーサイに帰りましょう」

「なぜだい?君がバンコクに住みたいと言っていたんじゃないか」

「私たちはここには住めないわよ、克保」

彼女は嗚咽を漏らした。

「あなただって、私たちがここには住めないことぐらいわかっているはずよ。私だって、あなたが辛い思いをするのは見たくない。私たちはやっぱり帰るべきよ」

 こうして、私たちと李國輝将軍は一緒に帰ることになった。上品に歩くご婦人方、歌い舞うこと玉堂春(訳注、明代の戯曲)の如きこの平和な世界と、まったく正反対の場所へ。

 私と妻は病気の子供を抱いて、仲間たちが待つ、あの荒くれた場所へまた戻ることになった。その後間もなくしてサルウィン河での戦闘が始まることになる。バンコクを離れ、汽車にがたごとと揺られて北上していくときに思った。私は夢を見ていたようであった。しかし、その夢には、無限の真実と、無限の重さがつきまとっているのだった。




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